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[特集]関東大震災、その時。(2)

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神奈川県平塚市

◆平塚では倒壊被害が多発
平塚市域にはどのような被害があったのでしょうか。早田旅人学芸員に、関東大震災による平塚の被害の特徴などを聞きました。

◇8割の家屋が全半壊
大正12年(1923年)9月1日、平塚は30度前後の蒸し暑い気温となっていました。平塚尋常高等小学校では全国殖産博覧会の褒章授与式が開かれ、八幡大門通りには、博覧会を祝うアーチが飾られていました。午前11時58分、相模湾沖が震源の震度6、マグニチュード7・9の大正関東地震が発生。多くの建物が倒壊しました。
神田村に住んでいた八田榮太郎(はつたえいたろう)さんが記した『公私諸事記載 大震災の記』では、このときの揺れを「南方より大波の寄せ来る如(ごと)く、畑と言わず宅地と言わず頗(すこぶ)る大波動をなし、殆(ほとん)ど天地覆(くつがえ)らんとするの感あり」と表現しています。体感した揺れの大きさが感じられます。
この地震で、平塚市域の全家屋の約8割が全半壊したと推定されています。写真が多く残るのが平塚町の被害です。平塚新宿から平塚本宿にかけ、多くの家屋や店舗が倒壊したのが見て取れます。人的被害は当時の人口の1・7パーセント程で、死亡476人、負傷232人、行方不明4人が記録されています。
※詳細は本紙をご覧ください。

◇火薬厰(しよう)の爆発で22棟が焼失
関東大震災と言うと、東京や横浜の大規模な火災被害をイメージする方も多いのではないでしょうか。平塚市域で記録されているのは、平塚銀行の火災で1戸が焼失、平塚町内で5戸が焼失、大野村のいろりからの火災で1戸が焼失などです。東京や横浜のような、規模の大きい火災は起こっていません。
火災による大きな被害を挙げるとするなら、海軍火薬廠です。激震のショックで研究部棟試験室内のガス管が破裂し、材料倉庫と第4工場をほぼ焼き尽くしました。そこから飛び火してアセトンとグリセリンのボンベで爆発が起こり、構内の22棟の建物が焼失。4人が死亡しました。周辺とは距離があったため、民家へは延焼しませんでした。

◇相模紡績工場では市内最多の死者
市内で最大の死者が出たのが、平塚駅南にあった相模紡績工場です。倉庫の一部をわずかに残しただけで、ほとんどの工場が全壊しました。従業員3000人のうち144人が死亡し、そのうち60人は寄宿舎内で就寝中に圧死したという記録があります。当時の同社社長・日比谷長太郎さんも、平塚駅で全壊した駅舎の下敷きになり亡くなりました。
須賀にあった関東紡績工場でも多くの工場が全壊。従業員245人のうち2人が亡くなりました。

◇河床が上がり玉川の流路を変更
地震はまちだけでなく、川にも影響を与えました。関東大震災で丹沢の山が崩れたため、玉川では大雨のたびに土砂が流れ込むようになり、河床が上がってしまいました。その結果、洪水の被害が頻発。昭和14年に、玉川の流路を変更して相模川に流す工事計画が、県から発表されました。戦時中の労力・物資不足の中、昭和21年に工事は完了。渋田川につながっていた玉川が、相模川につながるようになりました。
金目川も、近世に入ってから3回、流路変更をしています。そのうち1回は元禄16年(1703年)の元禄地震で、河床が上がったのが原因です。元禄地震は大正関東地震と同じく、相模トラフで起こったとされている地震です。大きな地震が起こるたびに、まちの姿も変わってきたんですね。

◆数字で見る被害
死亡者:476人
全壊数:4,192棟

『大正関東地震による神奈川県内の家屋倒壊率(博物館,2015)』を基に広報課で作成

◆当日に平塚で地震に遭った人たちの体験談
◇平塚小学校で当時教頭をしていた、守屋宣英さん
水平動なんか感じなかったね。いきなりガチャっときましたね。震源地が近くだから、揺れてきたな、そろそろ逃げようなんて、そんなのんびりしたことはできませんでした。

◇中原地区で畑作業を
していた、石原由太郎さん
震災の時は9月ですから、ちょうどサツマイモがあるでしょ。食べ物は全然心配いらなかったですね。水が湧くくらい深い地割れがあちこちにできて、ひどかったですよ。

『平塚・大磯地域での1923年大正関東地震の体験記録』より抜粋(博物館)

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