■御供屋別当信興(ごくやべっとうしんこう)、牛車(ぎっしゃ)を新調する
戦国時代の天文(てんぶん)17(1548)年3月、太宰府天満宮社家の御供屋別当信興が神事の際に牛車に乗ることを許可されました。許可したのは公家(くげ)の菅原長敦(すがわらのながあつ)で、これを仲介したのは守護(しゅご)の大内義隆(おおうちよしたか)でした(広報だざいふ2月号No.1017で紹介しています)。この話には続きがあり、許可を得た信興は自分が乗る牛車を新たに造り始めます。
ところが、許可に反対する意見が留守職(るすしき)(天満宮の現地における最上位の役職)の小鳥居信元(ことりいしんげん)を始め社家たちから出されていました。彼らは自分たちの考えを大内氏に進言しますが、義隆はそのまま許可する話をまとめました。ただし進言を部分的に受け入れて、幾つかの指示を出しています。
そのうち一番の焦点となったのが、牛車に付ける家紋(かもん)についてでした。信元からは、家紋について大内氏に何度も申し入れがあり、義隆はそれを考慮した上で信興に指示しました。その内容は、家紋は小鳥居家が「五梅(いつつうめ)」、大鳥居(おおとりい)家が「亀甲(きっこう)に五梅」、執行坊(しぎょうぼう)が「八葉(はちよう)」とのことであり、信興は牛車に総じて使われる「八葉」を用いるように、というものでした。しかし、実際には信興の家紋も小鳥居家と同じ「五梅」であり、義隆もそれは承知していました。にもかかわらず一般的な「八葉」を使うよう指示したのは、信元に配慮して、その望み通りにしたのだろうと思われます。すなわち、信元は自分の家と同じ家紋を信興が牛車に付けるのを好まず、これを阻止すべく大内氏に訴えていたということなのでしょう。
他にも、神事の際に牛車を止める位置については執行坊の次とし、今は執行坊が出頭しないので大鳥居の次とする、という指示も出しており、ここでも小鳥居らの意見が反映されていると思われます。
このように牛車に乗るなら乗るで、どういう牛車に乗るか、どこに止めるか等々、周囲とのトラブルを避けるために細々と気を配る必要があったことが分かります。
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太宰府市公文書館 大塚 俊司(おおつか しゅんじ)
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