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ふるさと再発見 広川町郷土史研究会

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福岡県広川町

■学校と教育制度の変遷その2~村の合併と村落小学の統廃合~
□村の合併に伴って、村落小学も統廃合となる
明治9年(1876年)三潴県(みづまけん)では、地租改正(ちそかいせい)に伴う村の合併があって、現在の広川町域では、21ヵ村から12ヵ村となります。現在に続く大字(おおあざ)は、その名残りです。
なお同8月21日付をもって、三潴県は廃され、筑後地域の10郡は福岡県となります。
さらに同10年になりますと、それまでの村落小学の統廃合の動きが出てきます。まず同1月には、水原(みずはら)小学(所在地は上馬場)、8月には広川(ひろかわ)小学(所在地は知徳小学の在った場所)、同じ年に新代(にいしろ)小学(所在地は吉里)、日吉(ひよし)小学(所在地は太原)、川上(かわかみ)小学(所在地は増永)ができています。「尋常(じんじょう)小学校沿革史」をみますと、いずれも民家を借りて教育に充てる、と記されています。
参考までにご紹介しておきますと、現在の広川町域の戸数は1825戸、人口は9023人(『福岡県史資料』)でした。
同12年には、一條町(おおむね国道209号沿い、現在は筑後市)に、広川小学一條支校が設置されています。多分に、児童の通学の便を考慮してのことではなかったかと考えています。2年後には、一條村字あざ前川原(まえごうら)に架橋(現在の下広川橋)し、通学の便を図ることによって、広川小学一條支校を廃する(「下広川尋常小学校沿革史」)、とあることからもわかります。
同15年8月には、広川小学では借家を購入して校舎狭隘(きょうあい)の不便を除く(同前)とあり、この時に太田村も広川小学の通学区に編入されています。
同16年4月には、新代・日吉・川上の3小学が廃止となって、久泉(ひさいずみ)小学が新築統合しています。久泉小学の設置場所は、久泉村字一本松、地番は久泉村705の1番地です。
久泉小学新築に伴い、従前の水原小学(水原村字宮ノ脇)は、久泉小学水原分校となります。さらに逆瀬谷(さかせだに)にも久泉小学の分校(場所は水原村字南屋敷)が設置されています。
同19年には、右の久泉小学水原分校が、鬼ノ渕(おにのふち)(水原村字西山仁田)に移転され、逆瀬谷分校は廃止となっています。これにより水原分校の通学区域は、従前の逆瀬谷を除く水原村全区から、梯(かけはし)・鬼ノ渕・逆瀬谷と変更になっています。
同21年になると、久泉小学水原分校は、水原小学簡易科(かんいか)と改称されます。時を同じくして広川小学にも、簡易科が設置されています。

□「小学校令」により、尋常小学校と高等小学校となる
同25年4月1日付で、従前の各小学は、水原尋常小学校・久泉尋常小学校・広川尋常小学校と変更され、初めて小学校(しょうがっこう)という名称が付けられます。

■広川町古墳資料館だより
うきは市では、円形の両側に方形の墳丘が付いた双方中円墳(そうほうちゅうえんぷん)が調査され、注目を集めています。
広川町では、九州縦貫自動車道建設に伴って、8の字形(双円墳)の「山の前3号墳」(現在は消滅)が1972年に調査されています。
報告書では、子ども用の小円墳築造後、その親の円墳をひっつけて築造されたものと考えられていますが、古代の親子の愛情が感じられる古墳です。

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