文字サイズ
自治体の皆さまへ

ふるさと再発見 広川町郷土史研究会

25/30

福岡県広川町

■学校と教育制度の変遷 その3~尋常小学校と高等小学校~
□「学制」から「教育令」へ
明治12年(1879年)9月29日、それまでの「学制」が廃止され、新しく「教育令」が公布されます。
小学校の就学期間は8か年を原則とするも、4か年に短縮することもでき、学齢期間中(6歳から13歳)に、16か月間就学すればよい、となっていました。
「教育令」は、同13年・同18年と改正が加えられていきますが、同14年5月に文部省が「小学校教則綱領」を通達します。これによって初等科3年、中等科3年、高等科2年と改められました。初めて高等科の名称が使われますが、それ以降は昭和20年の終戦まで続く高等科の始まりです。
同17年11月4日付で、上妻郡(こうづまぐん)・下妻郡(しもつまぐん)組合立の、福島高等小学校が設置されます。
同31年4月、福島高等小学校から分離して、広川高等小学校(場所は中広川村大字新代字前畑)が設置されますが、それまでは下広川村の西部域では、水田(みずた)高等小学校(現筑後市水田)や宮本(みやもと)高等小学校(現久留米市大善寺)などへも通っていました。

□3広川村の誕生
明治22年(1889年)4月1日付で、町村制施行に伴う村々の合併が行われて、上広川村・中広川村・下広川村の3村が誕生します。ちなみにこの時点の数的な構成は合計で、1804戸・9991人(『福岡県町村合併調書』)でした。またこの合併に伴い従前の水原村(みずはらむら)黒岩(くろいわ)を分離し、横山村(よこやまむら)(現八女市上陽町)へ編入したことも、特記して置くべきでしょう。

□「教育ニ関スル勅語(ちょくご)」の発布
明治23年10月30日、朕惟(ちんおも)フニで始まり、父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和(ふうふあいわ)シ朋友相信(ほうゆうあいしん)シ、恭倹己(きょうけんおの)レヲ持(じ)シ、博愛衆(はくあいしゅう)ニ及(およ)ホシ、学(がく)ヲ修(おさ)メ業(ぎょう)ヲ習(なら)ヒ、以(もっ)テ智能(ちのう)ヲ啓発(けいはつ)シ、と続く教育勅語が発布(はっぷ)されます。これを受けた文部大臣の訓令(くんれい)は、
「謹(つつしみ)テ勅語(ちょくご)ノ謄本(とうほん)ヲ作(つく)リ、普(あまね)ク之(これ)ヲ全国ノ学校ニ頒(わか)ツ」とあり、殊(こと)に式日(しきじつ)など適宜(てきぎ)に捧読(ほうどく)をと求めます。
福岡県では同25年3月に訓令を出し、御真影(ごしんえい)(天皇・皇后の写真)とともに、教育勅語を校内の一定の場所に、大切に奉安(ほうあん)するように指導します。
話を戻します。同26年には、広川尋常小学校の校区から太田村を分離し、校名も下広川尋常小学校と変更されます。
同29年(1896年)4月、旧久泉尋常小学校の校舎を移築し、中広川尋常小学校が現在地(現中広川小学校の場所)に設置され、時同じく上広川尋常小学校が大字吉常に設置されました。
両校ともこの時を創立元年とされていることから、下広川小学校とは周年の数え方に、23年の時間差が生じることになっているということです。

■広川町古墳資料館だより
古墳資料館には、久泉下牟田古墳(5世紀)で、広川町では唯一の銅鏡として出土した四獣鏡を展示しています。
直径11センチメートルのこの銅鏡には、被葬者の権威の象徴と死後の魔よけという大きな意味があったと考えられており、今年1月に奈良市・富雄丸山古墳から出土した盾形の異形銅鏡は、大きな話題となりましたが、これも古代の鏡のもつ宝器と祭器の二面性を強調したものと思われます。

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU