文字サイズ
自治体の皆さまへ

ふるさと歴史発見

18/34

福岡県築上町

第一四〇回 古代官道(かんどう)と赤幡条里(じょうり)
七世紀になり日本は律令(りつりょう)国家として歩み始めると当時先進国だった中国を手本に様々な事業に取り組みました。その一つが古代官道(駅路)の整備です。
古代官道は両側に側溝を備えた幅九〜十二メートルの道路で、九州では大宰府を中心に各地に張り巡らされました。江戸時代の中津街道は生活道路が発展してできたため、道幅も三・六メートル程度と狭く曲がりくねっていますが、古代官道は都(九州では大宰府)と地方を最短距離で結び、かつ道路そのものが国家権力の象徴でもあったため、広大で直線的に造られました。山があれば切り通し、水はけの悪い場所は軟弱地盤を削り取って石混じりの砂や樹木の小枝を敷き、その上に粘土を盛る地盤改良を行いました。そのため道路建設には多くの労働力がつぎ込まれました。しかし道幅が広いと管理が大変なため、徐々に道幅が狭くなり、やがて武士の時代になると一部の地域を除き古代官道はなくなりました。
築上町では東九州自動車道の北側を並走するように古代官道が通っていたと考えられます。赤幡では古代官道を基準線に条里と呼ばれる一町四方(墴一〇九メートル)の田の区画が整備され、現在でも見ることができ大変貴重です。(写真※本紙参照)古代においては、この条里をもとに国が国民に田地を貸出し、税を徴収する「班田収授(はんでんしゅうじゅ)」が行われました。
また、地方は国・郡・里という行政システムに組み込まれ、国には国府、郡には郡衙(ぐんが)と呼ばれる役所が設置されました。築上町は「築城郡(ついきぐん)」に含まれ、郡衙(役所)は赤幡(写真中央)にあったと推定されます。旧料金所は赤幡森ケ坪(もりがつぼ)遺跡で、昭和六十三年(一九八八)の発掘調査では、古墳時代後期〜平安時代の竪穴式住居跡が百十軒、掘立柱建物跡が三十八棟見つかりました。役人のベルト飾りの石帯(せきたい)や銅椀(どうわん)が出土し、周辺に郡衙(役所)の存在を思い起こさせます。また『延喜式(えんぎしき)』(平安時代中期の律令法規集)には、築城郡に築城駅(十六キロメートル毎に整備された古代官道の中継所)が置かれたとされ、みやこ町勝山の多米駅から墴十二キロメートルの赤幡に郡衙とともに駅が置かれていた可能性が考えられます。 (文化財保護係 馬場克幸)

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU