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福岡県行橋市

◆Vol1.豪商行事飴屋の人々
初代の玉江宗泉が一、六〇〇年代後半ごろに創業して以来、十二代目彦太郎氏まで続いた。小倉藩御用商・行事飴屋(玉江家)は、豊前国行事(現行橋市)の在郷商人として、「江戸豪商百人」の一人にあげられている。飴屋の当主は初代の玉江宗泉以来、代々彦右衛門と称した。
三代目の玉江彦右衛門(宗利)の時に飴商と綿実(わたざね)商で財をなし、さらに四代目彦右衛門(宗賢)の時に酒、醤油を醸造し、「登(のぼ)り商」といわれる廻船業を始めた。上方に綿実・菜種子を積んで上り、帰る便で生活用品などを持ち帰って商った。延享二年(一七四五)、五代宗達の時に板場(いたば)商(製蠟(せいろう)業)を営み、いわゆる「飴屋七商」(飴商、綿実商、登り商、質商、酒商、醤油商、板場商)の多角経営を行う。
広大な屋敷内には、大きな蔵も次々に建造され、本宅屋敷内の広さが二、九五三坪、倉庫、蔵、納屋、快哉楼(かいさいろう)、本宅主屋など計二八〇坪、総畳数一八六枚。他に別荘、酒屋、質屋、倉庫などもあったという。従業員も六百名近くいた。耕地の所有も増えて大地主となった。
七代目の彦右衛門宗徹は家業隆盛のなかで、余技としての俳諧、絵画にすぐれていた。画号を蓬洲と称し、異色の町人画家でもあった。藩からの信頼は厚く、私札の発行も許されている。
当時、御禁制だった四階建ての「快哉楼」を建築。玉江家から莫大な借財をしている藩からはおとがめもなく、むしろ役人の宿泊所、藩主の御廻郡の際、本陣となっている。この快哉楼に頼山陽、田能村竹田などの多くの文人がやって来て、一種の文化人のサロンにもなっていた。だが、飴屋は、明治、大正時代になって次第に衰退していく。その原因の一つは、急速な社会の近代化に追いつけなかったこと、もう一つは藩に貸し出した膨大な金が、返済されなかったからだといわれている。
しかし、飴屋は藩への献上金だけでなく、玉江家の歴代当主は、藩内を襲った飢饉の際、何度も貧しい農民に食料を寄付する篤志行為を行い、奉行より表彰されている。そのために「小倉藩十五万石を支えた裏方の豪商」といわれている。

末松謙澄顕彰会 城戸淳一

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