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福岡県行橋市

◆Vol7. 竹下しづの女(じょ)・郷土の碑
◇女流俳句の先駆者
女流俳句の黎明期、竹下しづの女は、大正八年(一九一九)の次男・健次郎誕生後、吉岡禅寺洞の「天の川」を知り、指導を受けた。処女作は「警報燈魔の眼にも似て野分かな」だった。翌年、高浜虚子の「ホトトギス」に投句を始め、六月号に「いつも此溝破れ鍋沈み田螺かな」が初めて採られた。そして八月号に女流俳人初の「巻頭」を飾った。彗星のように登場して日本俳壇をあっと言わせて席捲。巻頭七句の一句が代表作となる。

◇竹下しづの女の半生
しづの女は、明治二十年(一八八七)行橋市中川に生まれ、福岡女子師範卒業後、小学校訓導を経て師範助教諭となり、国語と音楽を担当。大正元年(一九一二)、農学校教諭の水口伴蔵と結婚(養子縁組)して福岡で暮らした。二男三女を育てる傍ら中村草田男とともに学生俳句連盟の句誌「成層圏」を創刊。学生らに俳句を指導、若い俳人を育てた。

◇郷土の三つの碑
昭和五四年(一九七九)、生誕地の中川に地元有志らで顕彰句碑の建立がすすめられた。碑は、郷土の千仏石に、しづの女が襖に揮毫(きごう)した「緑蔭」の句が原寸大で刻まれて完成した。

ところが前年、中川の墓地に親族らにより黒御影石に「緑蔭や」三文字を刻む印墓が据えられていた。また平成三年(一九九一)には、中京中学校の校庭に白御影石の「ちひさなる花雄々しけれ矢筈草(やはずそう)」が父母教師会によって建てられた。日々、生徒らの学びを見守っている。これは、しづの女の初句集『颯』の扉にある高浜虚子の序句「女手のをゝしき名なり矢筈草」と対になるもので、人間の逞しさを詠んだものだろう。矢筈草は、マメ科ハギ属の雑草。小さな花が咲く。茎が丈夫で踏みつけられても、踏みつけられても、なお負けずに強く育つ。すこやかな子らの育みの庭にふさわしい句であるようだ。あふれる陽を浴びて郷土に建つ三つの碑は、しづの女の肝っ玉母さんらしい姿でドンと建っている。

末松謙澄顕彰会 光畑浩治

※句は本紙をご覧ください。

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