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福島県伊達市

■長倉館跡(ながくらたてあと)とは
▽令和5年度第3回企画展 伊達市発掘調査速報展
〜3/31(日)
伊達市保原歴史文化資料館

開催中の企画展「伊達市発掘調査速報展-長倉館跡-」は、伊達小学校改修工事に伴い、令和2・4年度に行われた発掘調査の成果を展示しています。
長倉館跡は、阿武隈川左岸に発達した標高60m前後の段丘上に立地しています。現在は、伊達市立伊達小学校敷地や宅地として利用されています。
明治時代の「地籍図(ちせきず)」から復元した長倉館は、本郭(ほんくるわ)と西ノ郭(くるわ)から構成され、堀と土塁が巡らされていました。本郭は推定東西140m×南北130m、幅5~20mの堀を巡らし、内側には幅10~20mの土塁が築かれ、残っている土塁から推測の高さは約3mであったと考えられます。
本郭の土塁は、明治時代に東北本線敷地の盛土に使用されました。近年は住宅地として開発され、土塁の一部が残っています。
築城年代や築城者は不明ですが、伝承では前九年(ぜんくねん)の役(えき)(1051~1062)に源頼義(みなもとのよりよし)が築いた宮代館に対抗し、安倍貞任(あべのさだとう)が長倉館を築いたとされています。記録の上では、室町時代の応永7(1400)年に伊達大膳太夫政宗(だてだいぜんだゆうまさむね)(9代政宗)が一族の長倉入道(ながくらにゅうどう)と共に鎌倉公方足利満兼(かまくらくぼうあしかがみちかね)と対立し、騒乱になりました。天文11(1542)年の伊達氏「天文の乱」が勃発すると、14代稙宗(たねむね)方に味方した長倉信濃(ながくらしなの)・長倉美作(ながくらみまさか)が没落し、15代晴宗(はるむね)方の長倉彦兵衛(ながくらひこべえ)の所領となりました。天正19(1591)年の伊達氏の岩出山移封(いわでやまいふう)に伴い廃城になりました。

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