◆八田陣屋(はったじんや)とその歴史
江戸時代後期(18世紀末ごろ)の水戸藩では、飢饉(ききん)などの影響で農作物が不作となり、人口流出や農村経済の悪化が深刻な状態でした。こうした状況を立て直すため、6代藩主徳川治保(はるもり)は享和(きょうわ)2年(1802)に藩内の郡制を11郡に増やし、各郡ごとに陣屋(じんや)(役所)を設置して郡奉行(こおりぶぎょう)と呼ばれる役人に直接領民を支配させる方策を取りました。常陸大宮市域は大部分が「八田(はった)組」・「鷲子(とりのこ)組」という二郡に属しており、郡の中心となる八田村、鷲子村にそれぞれ「御陣屋(ごじんや)」が設けられました。特に八田陣屋は、高野昌碩(たかのしょうせき)や藤田東湖(ふじたとうこ)といった水戸藩の名だたる人物が郡奉行として着任し、水戸藩の農政改革を支えました。今回は、そんな八田陣屋の歴史について説明していきます。
◇八田陣屋の概要について
八田陣屋は、東野(とうの)地区と八田地区の境となる台地上に存在しました。現在、跡地には石碑が建てられているほか、地名や橋の名前に「御陣屋」の名称が残されており、当時の情景をうかがうことができます。創設については、「御郡方新撰御掟書(おこおりがたしんせんおんおきてがき)」(茨城大学図書館蔵)という史料に記録があり、寛政12年(1800)に水戸藩の農政学者である高野昌碩が野々上組(八田組の前身)の郡奉行に任命され、陣屋の建物を新築して赴任してきたと記されています。そして、翌年の八田組施行に伴い「八田御陣屋」と称するよう通達があり、天保(てんぽう)2年(1831)に11郡制が廃止されるまでの約30年間、八田陣屋は藩政の地域拠点として機能しました。この間赴任した郡奉行は、(1)高野昌碩、(2)白石又衛門、(3)石川儀兵衛、(4)友部正介、(5)井坂久左衛門、(6)藤田東湖の計6名で、高野昌碩は『芻蕘録(すうじょうろく)』で農村の窮状(きゅうじょう)を訴えたほか、白石又衛門は『御百姓教訓書(おひゃくしょうきょうくんしょ)』で農業の重要さを説くなど、いずれも藩の農政に明るい人物が起用されたと考えられます。郡奉行の業務としては、庄屋(しょうや)・組頭(くみがしら)の任命や徴税・訴訟といった行政・司法面の業務に加え、村の立て直しをはかるため、農民と接触しながら農業の奨励や教養の向上に努めました。市内には、これら業務に関する古文書の一部が現存しています。
◇現代まで残された八田陣屋の建物
天保2年の郡制改変によって廃止となった八田陣屋ですが、建物は移築によって取り壊されることなく現代まで残り続けました。残念ながら平成7年(1995)に解体されてしまいましたが、解体前に実施した調査記録から、建物の間取りなどをうかがうことができます。
11月11日(土)から12月24日(日)の間、当館エントランス企画展「八田陣屋とその歴史」を開催しています。今回紹介した「御郡方新撰御掟書」をはじめ、八田陣屋に関連する古文書などを展示していますので、ぜひお立ち寄りください。
参考文献:
・大宮町史編さん委員会編『大宮町史』昭和52年
・常陸大宮市歴史民俗資料館編『常陸大宮 ふるさと見て歩き』平成26年
(髙橋拓也)
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