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ふるさと見て歩き 第147回

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茨城県常陸大宮市

◆謎多き地殿神社(ちどのじんじゃ)
地殿神社(ちどのじんじゃ)は、東野字坂ノ上に鎮座する旧村社です。

◇由緒と沿革
拝殿に掲げられた昭和15年(1940)の「地殿神社略記」と題する額によると、創建は大同4年(809)、大和国大三輪(現奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社)より大己貴命(おおなむちのみこと)と素戔嗚命(すさのおのみこと)の二柱を勧請したとあります。一帯は地殿神社遺跡(旧東野遺跡)に指定され、神社の宝物の一つとして縄文時代の石棒が伝わっていることから、あるいは古代から祭祀の場所だったのかもしれません。「地殿神社略記」には続けて「初メ地頭殿ト称セシガ、(中略)寛文三年(1663)十二月、水戸藩主徳川光圀卿ノ藩政ニヨリ一郷一社ノ制度ヲ建テラレシ際、地殿ト改称ス」とあります。天正3年(1575)の「若宮八幡宮造営遷宮棟札」の写し(東野村文書「野上氏系図附録」)が存在することから、かつては地殿・八幡の二社を祀っていたことが分かりますが、八幡社は光圀の命により、よそに遷されたとも伝わります。どこに遷されたのかは、定かではありません。
神官は代々横山家が務めました。幕末、西野内の諏訪神社神官・菊池家から横山家の養嗣子となった横山亮之介(りょうのすけ)(徳馨(とくのり))は、勤王派の志士として活躍。元治元年(1864)9月、藩内抗争のさなか、行方郡四鹿村(現行方市四鹿(しろく))にて29歳の若さで戦死しています。

◇チドノかジドノか
ところで、「地殿」とは、ほかでは聞かない社号だと思いませんか?短い時間ではありますが、調べた限りでは同名の神社は見つかりませんでした。全国でも、ここだけかもしれません。
一方で、高萩市や北茨城市など、県北を中心に「十殿(じゅうどの)神社」(丞殿(じょうどの)、種殿(じゅどの)なども)という神社が、何社か存在しています。地殿神社も、これらと同系統の神社だと見る向きもあります。一説には、十殿神社は出羽三山の一つ、湯殿(ゆどの)権現(現湯殿山神社、山形県鶴岡市)を勧請したもので、湯殿権現は松尾芭蕉(まつおばしょう)の「奥の細道」に「語られぬ 湯殿にぬらす 袂(たもと)かな」とあるように、御神体など詳細は他言してはならないという禁忌がありました。そこで、湯殿権現を分霊するにあたり、社号を憚(はばか)って「湯殿」を音読みして「トウドノ」とし、そこに「十(とお)殿」と漢字をあてたものが、やがて「ジュウドノ」などと呼ばれるようになった…という説もありますが、確かではありません。
元が「地頭(じとう)殿」にせよ「十殿」にせよ、地殿は「ジドノ」と発音してもよさそうですが、現在、氏子の皆さんは「チドノ」と呼び習わしています(ちなみに、茨城県神社庁のホームページには、現時点で「じどのじんじゃ」とよみがなが振られています…)。

◇おわりに
令和元年の調査で、天文25年(=弘治2年、1556)の銘が入った木造男神坐像が確認されました。これは後に遷される八幡社に安置されていた八幡神なのか、あるいは「地頭殿」にまつわる神像なのでしょうか。分からないことだらけの地殿神社ですが、謎もまた魅力であると言えるのではないでしょうか。

参考文献:
・『大宮町史』(1977)
・鎌田啓司著『茨城の神社覚書II』(1993)
・『常陸大宮市史研究 第2号』(2019)
・『常陸大宮市史 資料編2 古代・中世』(2023)

※「ふるさと見て歩き」は、次回から、市ホームページ上での公開に移行します。更新の際には、ひたまるアプリなどでお知らせします。

問い合わせ:文化スポーツ課 文化振興グループ
【電話】52-1111(内線343)

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