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常陸大宮市 文書館だより Vol.56

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茨城県常陸大宮市

◆下檜沢の廃寺 太山寺
常陸大宮市域には、かつて多くの寺院がありました。江戸時代前期の寛文(かんぶん)年間(1661~1673)の時点で、常陸大宮市域には少なくとも200を超える寺院が存在したことがわかっています。しかし、徳川光圀や徳川斉昭が実施した寺社改革や、明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって、寺院の多くがその姿を失いました。現在は、地名やわずかな史料、伝承からその痕跡を伺うことができますが、その実態については不明なことが多いです。今回は、その中から、下檜沢地区にかつて存在した太山寺(たいさんじ)について紹介していきます。

◇太山寺の創立と歴史
大平山(おおひらさん)太山寺(たいさんじ)は、下檜沢字皆沢下に所在した真言宗(しんごんしゅう)の寺院です。現在、寺院跡には竹林が広がり、石塔や平場などわずかな痕跡のみ残されていますが、幕末に描かれた下檜沢村絵図には本堂や山門、参道などを確認でき、往時の様子がうかがえます。太山寺の創立年代は不明ですが、記録によると応永(おうえい)元年(1394)に宥知上人(ゆうちしょうにん)が中興したと伝わります。太山寺に関する資料は極めて少なく、詳細な歴史をたどることは非常に難しいですが、少なくとも中世を通じて小室氏の祈願寺(神仏に願い事を行うための寺院)であったことが推定されています。その後、江戸時代になると、寛文(かんぶん)3年(1663)時点で檀那125名を数えるなど、地域で有力な寺院の1つでしたが、天保(てんぽう)6年(1835)に火災によって全焼してしまいます。翌年に再建され、以後も寺院はしばらく存続したようですが、明治2年(1869)に太山寺の除地が村人に払い下げられており、この頃には既に廃寺になっていたと考えられます。

◇太山寺と小室氏の関係
佐竹氏の系図によると、小室氏は佐竹義盛(さたけよしもり)の弟である粟義有(あわよしあり)を祖とする家系と伝わりますが、他にも佐竹一族である酒出氏や山入氏の子孫という説も存在しており、正確な出身地については不明です。小室氏に関する記録としては、天文(てんぶん)8年(1539)に小室丹後守宗貞(こむろたんごのかみむねさだ)らが高部諏訪神社の社殿造営に関与したほか、元亀(げんき)3年(1572)には小室信濃(こむろしなの)が満福寺薬師堂(上檜沢地区)の新造に携わるなど、16世紀の美和地域で影響力を有した一族であったことがうかがえます。太山寺との関係については、文亀元年(1501)に小室豊後(こむろぶんご)が、天文3年(1534)に小室縫殿之介(こむろぬいのすけ)が太山寺で祈願を行い、寺院から願書を授かっています。特に小室豊後の時代は佐竹の乱が最終盤を迎えており、檜沢城を舞台に激しい戦闘が繰り広げられた頃でもあったことから、政治的・軍事的な意味での祈願が行われていたのかもしれません。太山寺による願書は享和(きょうわ)3年(1803)が最新であることから、小室氏による祈願は江戸時代以降も行われていたことが確認できます。

参考文献:
・美和村史編さん委員会編『美和村史』平成5年
・常陸大宮市史編さん委員会編『常陸大宮市史 資料編2 古代・中世』令和5年
・山川千博編『美和の中世城館-檜沢城-』(森と地域の調和を考える会、令和元年)
(髙橋拓也)

問い合わせ:文書館
【電話】52-0571

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