■中妻三十三郷(なかづまさんじゅうさんごう)の城館群~
江戸氏の生命線~現在、市内には61の城館が確認されています(「其の一」参照)。中でも江戸氏が支配した城館が最も多く、36城館を数えます。江戸氏の領域は広大なため、まんべんなく城を築いて支配を固めそうなものですが、実は約7割にあたる26城館が、市西部に集中して築かれているのです。この地域は現在の飯富・赤塚・双葉台・内原中学校区におおむね該当し、「中妻三十三郷」と呼ばれる、江戸氏の領域の中でも生命線とでも言うべき重要な地域でした。今回はこの中妻三十三郷についてお話しします。
江戸氏が最初に水戸に進出したのは、応永23(1416)年頃です。当主の江戸通景(えどみちかげ)は、水戸を支配する足掛かりとして、居城を河和田城(かわわだじょう)(河和田町)に定めるとともに、二人の弟を赤尾関館(あこうぜきやかた)(赤尾関町)と鯉淵城(こいぶちじょう)(鯉淵町)に配置し、領土の拡大に注力します。この時に江戸氏が手中にしたのが中妻三十三郷とされています。三十三という数字は実数ではなく、広い領域を意味する慣用句です。そしてわずか10年後の応永33年頃、通景の子通みちふさ房が水戸城を攻略し、江戸氏は常陸有数の領主となったのです。豊かな穀倉地帯である中妻三十三郷を押さえていたからこその躍進と言えるでしょう。
その後も江戸氏は中妻三十三郷に多くの家臣を配置しました。彼らは各地に城館を築いて城主となり、地域支配を行います。大塚鯉渕民部館(おおつかこいぶちみんぶやかた)(大塚町)、加倉井館(かくらいやかた)(加倉井町)、外岡若狭守館(とのおかわかさのかみやかた)(開江町)、神生館(かのうやかた)(飯富町)、加倉井忠光館(かくらいただみつやかた)(成沢町)などは、城主の名前が城館名になったものです。
中妻三十三郷でも特に城館が集中するのは、内原中学校区です。江戸氏一族が直轄(ちょっかつ)した赤尾関館・鯉淵城を中心に、田島城(たじまじょう)(田島町)、大足城(おおだらじょう)(大足町)、中原館(なかはらやかた)(中原町)、江川館(えがわやかた)(内原町)、三湯館(みゆやかた)(三湯町)、小林館(こばやしやかた)(小林町)、有賀城(ありがじょう)(有賀町)、大平豊後守館(おおひらぶんごのかみやかた)(杉崎町)、牛伏城(うしぶしじょう)(牛伏町)など、わずか数百m圏内に一つの城館が存在するほど。ここまで高密度で城館が集中する地域は市内では他に例がありません。江戸氏が中妻三十三郷にどれだけ重きを置いたのかが、城館の分布でよく分かります。
江戸氏は中妻三十三郷を勢力基盤として、北は現在のひたちなか市・那珂市まで、南は茨城町・小美玉市まで領土を拡大していきますが、天正18(1590)年に佐竹氏の侵攻を受け、滅亡します。これに伴い、中妻三十三郷の城館は多くが廃城となりました。
中妻三十三郷の城館群は小規模なものが多く、遺構の残りも一部にとどまる城館が多いですが、江戸氏と家臣団の栄枯盛衰(えいこせいすい)を今に伝える貴重な遺構と言えるのです。
歴史文化財課 関口慶久
□特別展「江戸氏―知られざれる水戸の戦国時代―」開催!
期間:2月3日(土)~3月10日(日)
場所:市立博物館
※料金など、詳細はこちら。(二次元コードは本紙参照)
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