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かさまのれきし第72回

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茨城県笠間市

■岩間泉地区伝承オウシュウカイドウ路傍に建つ「奥州仙台アボハラ地蔵」
国道三五五号泉地内、愛宕山への登り口十字路の南東五〇〇メートルほどに位置する南八坂神社付近の竹林の中に、古い地蔵が二体ひっそりと建っています。近隣の古老の話では「奥州仙台アボハラ地蔵」と呼ばれる親子地蔵だというのです。またそこから北へ五〇〇メートルほどの北八坂神社手前の畑に建つ地蔵も「オウシュウカイドウ」の伝承を持つ道沿いに建つ対の地蔵といわれています。
今から千年も昔、源義家が奥州征伐(一〇五一~一〇八三)に多くの兵(つわもの)を引き連れ行き交った古代官道が下安居地内を通っています。この道は、源頼朝も後に岩間上郷、宍戸地区を支配する八田知家、宍戸家政とともに佐竹氏討伐(一一八〇)に行き交った道でもあります。その道より三キロほど西に、泉地区から下郷、上郷、そこから先、大古山、矢野下、随分附を過ぎ、さらに古代官道へつながり、水戸地内河内駅家(かわちのうまや)(八一二年廃止)を北進し、陸奥国府多賀城付近仙台周辺まで、「オウシュウカイドウ」といわれたもう一本の道が、存在したのではないかと最近推測しています。はっきりしない地点も多々ありますが、その道筋には現在も古老たちの言い伝える「オウシュウカイドウ」という言葉や伝承が残っています。
一つは泉地区から北へ向かい岩間下郷に入ると八幡神社(現六所神社)があり、義家の戦勝祈願に地元の者たちが祠を建てたと伝わります。すぐ脇の愛宕山登り口路傍には江戸時代建立(一六九五)ではありますが、三体目の「奥州仙台アボハラ地蔵」が建てられています。仙台の行者が「オウシュウカイドウ」からこの地へ辿りつき、生き倒れになった者を弔った地蔵だと伝えています。その細い道をさらに北へなだらかに下ると、上郷の田園地帯に出ます。ここには御正作(みそさく)(領主の直営田)や堀ノ内(領主館)の地名が残り、宍戸家政の所領地宍戸荘(ししどのしょう)と伝えられ、領主が馬に跨(またが)り鎌倉幕府へ行き交った街道でもありました。その街道東側には佐藤林といわれる平地林が広がり、ここに住み続けた佐藤家(一七〇七年銘位牌を有する)の伝承によると「林の中にある幾つかの塚を掘るとたくさんの馬の死骸が現われ、有毒な煙が立ち上り掘り起こした者はことごとく死んでしまった。祟(たた)りと思い、馬の霊を弔って現在の室野地内の馬頭観音堂を作った。遠い昔、東北に戦いに行くたくさんの武士がこの地を通り、亡くなった馬を埋めていったのだ」と伝えています。佐藤林の南東には「奥州ヶ池」と呼ばれる小さな池もあり、涸沼川の支流桜川へ流れ込む「軍勢川」や岩間支所周辺の「白旗」という小字名等も残されています。この辺りから涸沼川を渡り、矢野下を抜け、随分附、鯉淵方面へ進み、古代官道へ合流するもう一本の細い「オウシュウカイドウ」が浮かび上がります。奥州征伐への何万という兵が一度に集まるわけもなく、少しずつあちこちの領主が領民を集めながらの行軍で、さまざまな伝説を生みながら歴史は語り継がれてきたのでしょう。
市史研究員 川﨑史子(かわさきふみこ)

問合せ:生涯学習課
【電話】内線382

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