文字サイズ
自治体の皆さまへ

輝く島原人Vol.67島原に生きる

9/31

長崎県島原市

【守り続けた消防団魂】

「人生の達人」本田庄一郎(ほんだしょういちろう)さん(63)

昭和34年、寺中町で生まれ、育つ。高校卒業後、中日本航空専門学校で機械整備の技術を2年間学び、建設機械メーカーに就職。2年間勤務した後、母の実家を継ぐため帰郷。
全くの未経験だった農業を独学で始め、現在は稲作とイチゴ栽培の農業を営む。
25歳で有明町消防団に入団(S59)以降、地域消防のリーダーとして活躍し、有明町消防団長(H12~)、合併後は島原市消防団副団長(統括副団長H18~)、島原市消防団長(H21~)として重責を務め、令和5年3月末に退団。約39年間にわたり消防団活動に尽力した。
日本消防協会長表彰精績章(H17)、長崎県知事表彰永年勤続功労章(H23)、日本消防協会長表彰勤続章(H27)、日本消防協会長表彰功績章(H28)、消防庁長官表彰功労章(H30)、長崎県民表彰(R1)、島原市表彰(R2)、藍綬褒章受章(R2)など。有明町向之原在住。

(写真)平成25年の消防出初式にて

■前段
○力強くも優しい眼差しで語るのは、令和5年3月末で島原市消防団長を退任した本田庄一郎さんです。
消防団に入団したきっかけは「私は三会の寺中町の生まれですが、母の実家を継ぐために帰郷し、23歳の頃に有明町向之原に来ました。
まわりには知り合いが少なかったので、はやく地域になじんで仲間を増やしたいと思い入団しました」と、消防団人生のスタートを振り返ります。
平成18年1月、有明町消防団長として合併を迎え、島原市消防団では一代限りの「統括副団長」として3年3か月間務めた後、第8代の島原市消防団長に就任します。
「団長として改めて深く身に染みて感じたことは、やはり、消防団員12名の尊い命を失った雲仙普賢岳噴火災害の「悲しみの重さ」でした。
消防団員約六百人を預かる責任者として火災現場など、活動中の団員の命と安全の確保を最優先にすることを改めて誓いました」と、団長就任時の思いと覚悟を語ります。
以降、長年にわたり、昼夜を分かたずその重責を担ってきた本田さん。思い出に残る出来事をお聞きすると「在任中はいろいろなことがありましたが、その中でもうれしい出来事を三つ紹介させてもらいます。一つ目は私が団長に就任して間もない平成21年10月に、新たに組織した島原市女性消防隊が横浜市で開催された全国女性消防操法大会に出場して優良賞(第8位)を獲得したことです。初めての出場でしたが好成績を収めてくれました。二つ目は、平成27年2月に東京都で開催された全国消防団員意見発表会で、私が推薦した当時の三会地区の寺田本部部長が、優秀賞(第2位)を受賞したことです。発表内容はもちろん練習を重ねての成果だったので本当にうれしかったです。
そして三つ目は平成30年8月、湯江地区消防団が長崎県消防ポンプ操法大会で悲願の優勝を果たし、島原市消防団が初めて県代表として全国大会に出場したことです。きつい練習に耐えて大きな成果をもたらしてくれた選手たち、それを支えてくれた団員達を誇りに思っています」と、笑顔で語っていただきました。

■後段
○退任後は「晴耕雨読」な生活を
イチゴ農家として日々畑で汗を流す本田さん。人生の三分の二近くを消防団活動とともに歩んできました。読書が趣味ということで家の本棚には数えきれないほどの本が並んでいるそうです。「消防団活動ができたのも妻の理解と協力があってのこと、感謝しています。今後は一市井の人として、家業である農業をしながら消防団活動を見守っていきたいと思います」と、語っていただきました。

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU