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波佐見の偉人 第1回 ―原マルチノ

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長崎県波佐見町

今月号から波佐見の偉人11人を紹介するコーナーを設けます。第1回目は「原マルチノ」です。
波佐見中学校正門の前、波佐見町総合文化会館(ウェイブホール)の駐車場内に一人の少年の銅像が建てられています。彼の名前は「原マルチノ」と言います。
原マルチノは戦国時代の永禄12年(1569)ごろ、波佐見の武士・原 中務(なかつかさ)の子として生まれました。原家は日本最初のキリシタン大名・大村純忠(おおむらすみただ)の一族とされ、マルチノの両親はキリシタンでした。
マルチノとはキリスト教の洗礼を受けて授けられた名前で、日本人としての名前は不明で、波佐見のどこで生まれたかも分かりませんが、イタリアに残る「ボローニャ元老院日記」には「マルチノはハサミ生まれ、ナカヅカサの子」と記されています。この日記は原マルチノが波佐見で生まれたことを証明する世界でただ一つの記録です。
マルチノは司祭になるため、有馬(南島原市)のセミナリヨ(イエズス会神学校)に入学しました。このころ、キリスト教の巡察使として日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、大村純忠とともにローマ教皇のもとに使節を派遣しようと考え、セミナリヨで学んでいたマルチノを含む4人の少年たちが使節に選ばれ、天正10年(1582)長崎を出帆しました。
マルチノは当時13歳ぐらい、4人の中で一番最年少でしたが、外国語の天才でした。
そしてローマから日本へ帰る際、インドのゴアでヴァリニャーノに対し、ラテン語で感謝の演説を行いました。この演説の内容はコンスタンチノ・ドラード(諫早市出身)によって、ゴアで印刷され今も日本に残っています。
マルチノら4人の少年は天正18年(1590)に帰国し翌年、京都の聚楽第(じゅらくだい)で豊臣秀吉に会い、西洋音楽を演奏しました。秀吉はその演奏に感動し何度もアンコールして、少年たちを家臣にしようとしましたが4人は断りました。
その後、マルチノらは天草でイエズス会に入り、慶長13年(1608)マルチノは司祭になり、キリスト教を広める活動とともに本を作る仕事を行いました。また教会の代表者として戦国大名との交渉も行い、日本人司祭の中では一番知られた人物でした。優秀なマルチノは慶長18年(1613)イエズス会日本管区長の秘書に任命されました。
しかし翌年、江戸幕府のキリシタン追放令でマカオに追放されましたが、ロドリゲス神父の『日本教会史』という本を書く仕事に協力し、寛永6年(1629)10月23日に亡くなりました。お墓はマカオの聖ポール大聖堂の地下にあるアレッサンドロ・ヴァリニャーノのお墓のとなりに建てられています。
鬼木郷で生まれた児童文学研究者・福田清人(ふくだきよと)は昭和59年(1984)原マルチノのことを思い、「マルチノも 追ひし日あらん 赤とんぼ」という俳句を詠んでいます。
原マルチノに関することや資料は波佐見町歴史文化交流館(波佐見ミュージアム)で分かりやすく展示していますので、ぜひご覧ください。
学芸員 盛山 隆行

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