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波佐見の偉人 第2回

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長崎県波佐見町

◆深澤儀太夫勝清(ふかざわぎだゆうかつきよ)

深澤氏はもともと、武雄(武雄市橘町永島)の武士団の名門・橘姓渋江(たちばなせいしぶえ)氏の一族で、橘公義(たちばなのきみよし)の四男・中橋六郎時成(なかはしろくろうときしげ)を開祖とします。7代・公貞(きみさだ)は名字を改め掛橋六郎左衛門(かけはしろくろうざえもん)公貞と名乗りました。公貞は最初、芦原(あしはら)村(武雄市北方町芦原)に住んでいましたが、享禄年間(1528~32)に周防国(すおうのくに)(山口県)の戦国大名・大内氏の侵攻を避け、波佐見村長尾(永尾郷)に移住しました。公貞の子・公房(きみふさ)は名字を改め土橋甲斐守(どばしかいのかみ)公房と名乗り、波佐見村井石(井石郷)に移住し、井石城や井石神社を築きました。やがて公房の甥・公清(きみきよ)は波佐見村中尾(中尾郷)に移住し、名字を改め中尾土佐(なかおとさ)公清と名乗りました。
そして公清の孫として天正12年(1584)中尾郷に生まれたのが中尾次右衛門勝清(なかおじえもんかつきよ)、後の深澤儀太夫勝清です。ただし、勝清が中尾郷のどこで生まれたかは分かっていません。勝清の妻は湯無田郷の内海城主・内海市左衛門政勝(うつみいちざえもんまさかつ)の娘で、戦国時代に武雄領主・後藤貴明(ごとうたかあきら)を撃退した照日姫(てるひひめ)(照日観音(てるひかんのん))は大叔母になります。
勝清は最初、武道の修行をしていましたが、紀伊国太地浦(きいのくにたいじうら)(和歌山県東牟婁郡(ひがしむろぐん)太地町)で勇壮なクジラ捕りを知り捕鯨技術を学んで帰ってきました。
勝清は正保4年(1647)大村藩領松島(西海市大瀬戸町)を中心に九州で最初にクジラを捕るグループ(鯨組)を率いて捕鯨を開始しました。五島灘や玄界灘など九州沿岸の海はクジラがたくさん捕れたのであっという間に勝清は大金持ちとなりました。
クジラは大村湾内の彼杵港(東彼杵町)へ運ばれ同地で解体され全国に運ばれました。
クジラは食用以外にも用いられ捨てる部分がほとんどなく、当時クジラ1頭が捕れたら7つの村が豊かになると言われ、捕鯨で得た利益は大きかったのです。
勝清はその利益を自分で使うことはせず大村藩に献金し、そのお金は波佐見をはじめ大村など藩内全体での新田開発、堤の築造などの土木工事やお寺の建て替えなど公共事業に使われました。この時、勝清のおかげで約4000石(約60万kg)の米が取れる田んぼが新たに開発され、大村市の野岳大堤(のだけおおづつみ)(野岳湖(のだけこ))も築かれました。
このため4代藩主・大村純長(おおむらすみなが)から深澤の名字と金枡(きんます)の家紋を頂き、深澤儀太夫勝清と名乗りました。
勝清は現在でも波佐見町や東彼杵町のみならず大村市、西海市、壱岐市などで地域の恩人として広く知られています。
中尾山で育った深澤儀太夫勝清は海で活躍し、寛文3年(1663)に80歳で亡くなりました。

学芸員 盛山隆行

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