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おたや祭り(3)

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長野県長和町

◇[川中島の合戦「信玄と謙信の一騎打ち」の場](桜町第5場)
武田と上杉、二つの軍勢が激突する川中島。その中で繰り広げられた第四次川中島の戦いが最大の激戦であった。山車に描かれた場面は、その中でも特に印象深い信玄(しんげん)と謙信(けんしん)の一騎打ちを捉えている。
甲斐(かい)(現在の山梨県)の武田信玄は、家臣を重んじ「風林火山」の旗の下、戦国最強と言われた武田軍団をつくりあげた。信濃制覇(せいは)を目指す信玄は北信濃へ侵攻した。一方、越後(えちご)(現在の新潟県)の上杉謙信(けんしん)も「越後の虎」と呼ばれた戦の天才であった。義を重んじた謙信は、北信濃の豪ごうぞく族から助けを求められ、毘沙門天(びしゃもんてん)の「毘」の幟(のぼり)をはためかせ戦いに介入(かいにゅう)した。その結果、戦国最強の二人の武将が川中島を舞台に戦うこととなった。
永禄(えいろく)四年(1561年)九月十日、両軍が川中島の八幡原(はちまんばら)で激突した。乱戦で手薄となった信玄の本陣に謙信が斬り込みをかける。馬上の謙信、床几(しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつける。信玄、軍配をもってこれを受ける。信玄の冷静な瞳と謙信の熱き視線が交わり、その一撃に賭ける決意が、まるで時間を止めたかのようであった。
川中島で五度にわたり戦い、生涯の宿敵であった信玄と謙信。異なる価値観を持ちながらも、互いを認め合った武将。その姿勢は、現代社会においても共感を呼ぶものがある。多様性と調和の精神が求められる今、彼らの戦いは新たな意味を持って蘇(よみがえ)ります。

◇復活「龍の子太郎!」
この「龍」と「太郎」は平成24年に中町保存会が奉納したものです。
今回、長門小学校6年生が昨年12月から色の塗り直しや壊れた箇所の修復を行い「龍」と「太郎」を蘇らせました。なお人形は長門小5年生が水田学習の一環として作った案山子(かかし)を活用しました。
「泉小太郎伝説」は信州松本平に伝わる壮大な郷土創生説話(そうせいせつわ)で、そのスケールの大きさから秋田県「八郎伝説」に比肩(ひけん)するといわれています。また、松谷みよ子作『龍の子太郎』の原話となったことでも有名です。
大昔、松本平は広大な湖で、人々は湖畔の狭い農地で細々と暮らしていた。小太郎は鉢伏山(はちふせやま)にて誕生、放光寺山(ほうこうじさん)(松本市城山(じょうやま))の辺りで成長して日光泉小太郎と名乗った。成長の後、育ててくれたおばあさんに両親のことを尋(たず)ねると、父は湖に棲(す)む大日如来(だいにちにょらい)の化身(けしん)である白(はく)龍(安曇族(あづみぞく)の主(ぬし))、母は諏訪大明神(すわだいみょうしん)の化身である犀龍(さいりゅう)(諏訪族の主)であることが初めて明かされた。小太郎は両親を探し求め、尾入沢(おいりさわ)(安曇野市豊科町(とよしなまち)高家(たきべ))辺りで母である犀龍と会うことができた。母子は湖を干して人々の苦難を救うことを決意、小太郎は母龍に乗って生坂村山清路(いくさかむらさんせいじ)付近にあった巨大な岩山を突き崩し、湖水を犀川から日本海に落としてこの地を平野に変え、広大で豊かな農地を開いた。こうして、犀によって開かれた川であることから「犀川」という。
このように、伝説では小太郎が乗った母龍は犀龍で、その姿は現在のサイに似ているのですが、松谷みよ子作『龍の子太郎』のイメージを採用して「龍」の姿としました。

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