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〔特集〕第100回市田灯ろう流し大煙火大会(1)

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長野県高森町

高森町の夏を華やかに彩る「市田灯ろう流し大煙火大会」。新型コロナウイルスの影響で、令和2年から中止や規模の縮小を余儀なくされてきましたが、今年4年ぶりにコロナ禍前と同規模で開催します。
花火が輝く時、人は夜空を見上げます。幼い子どもから年配の方まで、皆が同じ空の下でつながるその瞬間は、昔も今も変わることのない町の風物詩。天竜川の川面を照らす灯籠の光、父母と手をつないで訪れた屋台、大切な人と見た花火のきらめき。それぞれの思い出はかけがえのないものとして、深く心に刻まれていると思います。
「町内に暮らす方はもちろん、夏休みの帰省を18日まで延ばして楽しみにしてくださっている方もいる。コロナ禍を経て、皆さんが集まるきっかけとなり、大切な夏の思い出になればと願っています」と出砂原自治会長の福島文雄さんは話します。
大正末期に始まり、今年100回目の記念すべき節目を迎える「市田灯ろう流し大煙火大会」ですが、その起源や歩みは意外と知られていません。今回は、「市田灯ろう流し大煙火大会」の歴史と、これまで長らく開催の主体として力を尽くし、地域内外にまで知れ渡る祭りへと発展させてきた出砂原自治会の皆さんの想いをご紹介します。

■市田灯ろう流し大煙火大会にまつわるQandA
Q.行事の始まりはいつから?
A.天竜川の河畔で、現在も行われている「川施餓鬼法要(かわせがきほうよう)」がそのルーツです。川施餓鬼法要とは読経の功徳により新盆を迎えた新霊や水難者などの諸霊を供養するため行われるもの。大正4年、四恩会(安養寺、松源寺、瑠璃寺、光専寺)発足を機に始まり、当初は灯籠流しや花火もない、しめやかな法要でした。
その後、飯田線開通を契機に「南信新聞」の主催で天竜川に灯籠を流す行事がスタートし、その風雅な姿を見ようと電車に乗り多くの見物人が集まるように。同時期に発展した出砂原商店街が飲食などの出店を始め、活気ある祭りへと進化していきました。

Q「.灯籠流し」って何?
A.死者の魂を弔うため、灯籠を川や海へ流す日本の伝統儀式です。かつては先祖の魂が灯籠に乗って川を下り、あの世へ戻ると信じられていました。
信州各地でお盆前後に行われる灯籠流しの中でも、「市田灯ろう流し」の歴史は古く、現在も8月18日の夕方、明神橋の下で川施餓鬼と共に実施されています。その年新盆を迎えた方の戒名札がついた灯籠を流しながら手を合わせて御霊を見送ります。

Q.どんな灯籠を流しているの?
A.かつては新盆で飾った切子灯籠を集め、麦わらで作った台の上に乗せて流していました。しかし近年は環境への配慮もあり、水に溶ける和紙を材料に作った自然に優しい灯籠を流しています。

Q.毎年8月18日なのはどうして?
A.お盆の法要が終わったあと、寺院に納められる切子灯籠を集めるのに時間がかかったためです。当時は運搬手段もなく、飯田駅で貨車に積み込んだ荷物を2日がかりで市田駅まで運んでいました。その後、祭りが認知されるにつれ「8月18日は市田灯ろう流しの日」と定着して現在に至ります。

Q.花火が始まったのはいつ?
A.明確な記録はありませんが「南信新聞」に“煙火”の文字が掲載されたのは昭和2年以降です。ただし、当時の花火は十数発程度。川施餓鬼・灯籠流しの法要が主役で、花火はあくまでも脇役だったようです。戦時中は花火の打ち上げも途絶えましたが、昭和30年ごろから再開。この祭りを応援し、楽しみにしてくださる皆さんの寄付や協賛金などの支援により、毎年およそ1500発の花火が打ち上がる大煙火大会へと発展しました。

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