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特集 戦国時代の富士宮(1)

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静岡県富士宮市

■第5回武田氏と富士宮
富士宮は、徳川家康をはじめ戦国時代の名立たる武将が入り乱れ、勢力を争い、戦った場所です。
戦国武将にまつわる歴史や史跡などを紹介する
-特集 戦国時代の富士宮-
戦国時代の富士宮の歴史や文化に触れ、当時の人々に思いを馳せてみませんか。

◇2023年大河ドラマ「どうする家康」(NHK)
日曜日 放送予定
ひとりの弱き少年が、乱世を終わらせた奇跡と希望の物語
国を失い、父を亡くし、母と離れ、心に傷を抱えた孤独な少年・竹千代は、今川家の人質として、ひっそりと生涯を終えると思っていた。しかし―三河武士の熱意に動かされ、弱小国の主として生きる運命を受け入れ、織田信長、武田信玄という化け物が割拠する、乱世に飛び込んだ。待っていたのは死ぬか生きるか大ピンチ!計算違いの連続!我慢の限界!どうする家康!
主演:松本潤(徳川家康役)
作:古沢良太

《武田氏の河東支配》
1569年、大宮城(大宮小学校周辺)を手に入れた後、武田氏は、約13年間、河東(かとう)(富士川から東の駿河国(するがのくに)一帯)を支配しました。
武田信玄から、郡司(ぐんじ)※1に任命された家臣の原昌胤(はらまさたね)は、1570年に大宮城の修築を行い、軍事(ぐんじ)拠点としての強化を図るなど、大宮城を拠点に駿河国の一部の支配を担当しました。
同年、信玄は、駿河国に侵攻し、北条氏の城を攻撃しました。このとき、信玄は、大宮浅間神社(富士山本宮浅間大社)に「武田信玄願文(がんもん)※2」を捧げ、北条氏の滅亡を祈りました。
※1 行政長官
※2 神仏に願いを込めて捧げる文書

◇信玄の領国経営
信玄は、北条氏康(うじやす)の死後、子・氏政(うじまさ)と、北条氏との同盟を復活させました(甲相同盟(こうそうどうめい))。
和議の結果、河東地域の多くの領地が北条氏から武田氏に譲られました。信玄は、家臣に河東地域の土地を与える判物(はんもつ)※3を出したり、大宮城の改修や、大宮浅間神社の立て直し、麓金山の開発※4を行うなど、駿河国での領国経営を始めました。
※3 戦国大名などの花押(かおう)(サイン)のある文書
※4 採掘された金を、金貨に使用したり、家臣に褒美(ほうび)として与えた。

〔富士郡の領主「富士氏」〕
富士氏は、戦国時代、大宮浅間神社の神職「大宮司(だいぐうじ)」を務め、富士郡(富士宮市一帯)を治めた一族です。
今川氏と北条氏が河東を巡って争った河東一乱で、富士宮若(ふじみやわか)が小泉上坊(こいずみかみぼう)に陣取って北条氏と戦ったり、武田信玄による駿河国侵攻で、大宮城に籠城(ろうじょう)し武田軍を2度退けるなど、武士としても活躍しました。
1569年、武田氏の攻撃に耐えきれず、信玄に大宮城を明け渡した富士信忠(のぶただ)と子・信通(のぶみち)は、大宮を離れた後、甲府などで信玄に従いました。
武田氏の政策により、大宮周辺が、軍事的な拠点から宗教的な拠点へ切り替えられると、1577年、信通は武田勝頼から大宮浅間神社の大宮司を継承することを認められました。

◇武田氏と大宮浅間神社
信玄は、神職に対し権利や身分を保障し、戦乱でいなくなった継承者を再編成しました。また、領地を整理したり、家臣の子を神職として送り込んで神社内を統制するなど、大宮浅間神社の立て直しを行いました。
1573年、信玄が死去すると、子・勝頼(かつより)は信玄の政策を引き継ぎ、1576~1578年、大宮浅間神社の造営(ぞうえい)※1や遷宮(せんぐう)※2などを行ったほか、年間祭礼や資金などを細かく整理させました。
勝頼は、遷宮の間、まちなかの治安を乱す行為を固く禁止する朱印状を発行しました。
※1 社殿を建てること
※2 神を新しい社殿に移すこと

◇勝頼の領国経営
勝頼は、駿河国と甲斐国(かいのくに)を結ぶ中道往還(なかみちおうかん)(甲州街道)沿いの根原村などの集落に、伝馬(てんま)制度※3を定めるなど、交通制度の整備を行ったり、毎月6度、大宮西町で新しく市を開くことを定めた掟書を出しました。
※3 宿駅に人馬を常駐させ、宿場ごとに人や公用の荷物を交替して運ぶ制度

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