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特集 戦国時代の富士宮(2)

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静岡県富士宮市

〔戦国最強の騎馬隊を率いた甲斐の虎「武田信玄」〕
信玄は、父・信虎(のぶとら)を追放し、武田氏の第19代当主になると、「風林火山(ふうりんかざん)」の軍旗を掲げ、圧倒的な強さを誇る騎馬隊(きばたい)を率いて、甲斐国(かいのくに)(山梨県)から、信濃国(しなののくに)(長野県)、駿河国(するがのくに)(静岡県東部)などに勢力を拡大しました。領国内の交通路の整備や農業振興を進めたほか、金山の開発に力を入れ、甲州金(金貨)を作るなど、経済を発展させました。
1572年、徳川氏の領地(遠江国(とおとうみのくに)・三河国(みかわのくに))に侵攻し、織田信長との戦いを目指す途中、病に倒れ亡くなりました。

▼どうなる家康
「宿敵・武田信玄」

◇29歳頃
1570年、武田信玄が駿河国を支配下に置くと、家康は、武田氏の侵攻に備え、長男・信康に岡崎城を譲り、遠江国の浜松城に移りました。
家康は、織田信長と信玄との関係を破綻させようと、長く信玄と対立していた越後国の上杉謙信と信長を結び付けたほか、武田氏と絶縁し謙信と同盟を結びました。

◇30歳頃
1572年、信玄から攻められた家康は、遠江国の一言坂(天竜川の東)、二俣城(浜松市)、三方ヶ原(みかたがはら)(浜松市)などで敗れました。

◇32歳頃
1573年、信玄が西へ進軍する途中、病に倒れたため、家康は、武田氏の三河国侵攻の拠点となっていた長篠(ながしの)城などを攻め落とし、勢力を盛り返していきました。

《ゆかりの地》
◇富士山本宮浅間大社(大宮浅間神社)
武田氏は、戦乱による立て直しのために、神領の寄進や、社殿の造営を行った。勝頼の具足など、多くの奉納品が残る。

◇白鳥山
山城(やましろ)が築かれ、武田信玄の駿河国侵攻の際、のろし台として使われたとされる。

◇首塚(胴塚)
武田軍と今川軍の「内房口の戦い」の戦場で討ち死にした者の首や胴を葬った場所といわれる。

◇富士(相沼(そうぬま))浅間神社
武田信玄に従っていた、穴山信君(のぶただ)にゆかりのある神社といわれる。

◇勝之橋(かつのはし)
江戸時代の「駿河記」によると、武田信玄が駿河国侵攻の際、和歌を詠んだと伝わる。

◇勘助誕生地の碑
大正13年、昭和天皇の御成婚を記念して、大宮町山本の青年団によって建てられた。

〔武田氏の家臣として活躍した「山本勘助(かんすけ)」〕
江戸時代初期の「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」などでは、
・勘助は、三河国牛久保(みかわのくにうしくぼ)の出身で、若い時に各地を旅して兵法(へいほう)や築城(ちくじょう)を学んだ。
・武田信玄に召し抱えられ、軍勢を率いる足軽(あしがる)※1の大将として活躍した。
・信玄と上杉謙信(けんしん)が戦った川中島の戦いでは「、きつつき戦法※2」を提案した。
とされています。
江戸時代後期の「甲斐国志(かいこくし)」では、勘助は駿河国富士郡山本(富士宮市山本)の出身とされています。
勘助は、かつてその実在を疑われていた時期がありました。しかし、1969年、「山本菅助」の名が記された信玄の書状が発見され、書状から、菅助(勘助)が信玄の使者※3として活躍したことがわかっています。

※1 弓や槍などの武器を持ち、軽装で戦う農民や下級武士
※2 山の上に陣を構える上杉軍を攻撃して、山から下りたところを攻撃する作戦
※3 大名の意思を伝える人

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