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掛川歴史探訪(41)

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静岡県掛川市

徳川家康と掛川三城(10)

高天神城包囲網取り囲む砦群

天正9年(1581)の徳川家康による武田方の高天神城奪還のための戦いでは、城の周囲に多くの砦を築き、城を孤立させることにより、食料や弾薬の補給を遮断させる戦略を取りました。築かれた砦の中でも、主となる6つの砦(小笠山砦、中村砦、能ヶ坂砦、火ヶ峰砦、獅子ヶ鼻砦、三井山砦)については、「高天神城六砦」と呼ばれています。
砦は、高天神城を包囲するために効果的な位置に築かれました。はじめに家康は、永禄11年(1568)の掛川城攻めの際にも砦として使用した小笠山砦の改修を行います。標高約250メートルの小笠山山頂付近に築かれたこの砦からは高天神城を遠望でき、家康も布陣したとされます。その後、能ヶ坂砦、火ヶ峰砦、獅子ヶ鼻砦、三井山砦は、陸路での敵の監視目的で、中村砦は物資搬入搬出の目的で築かれました。これは当時、中村砦の南側には菊川入江が広がっており、さらに高天神城周辺では小川や湿地を利用した水運での物資運搬が可能であり、港としての役割があったためと考えられています。またその他にも補給路遮断を徹底するために神宮寺砦や林ノ谷砦、畑ヶ谷砦、星川砦など合わせて大小20もの砦が築かれました。
江戸時代に書かれた『三河物語』には、高天神城の周囲に堀や土塁、高い塀をめぐらし、7重・8重の柵を設け、一間(1.8メートル)につき、兵を一人ずつ配置し、見張りをさせたと記されています。徹底した包囲の様子は「城中からは鳥も通わぬ」と物語の形で表現されています。
今回紹介した小笠山砦、中村砦などは、現在でも、砦としての痕跡を見ることができ、兵士の駐留や物資の保管をしたであろう曲輪や堀切・土塁・横堀などの良好な遺構が残されています。
次回は、徳川・武田による熾烈な争奪戦を繰り広げた高天神城。いよいよその落城について紹介します。

問合せ:文化・スポーツ振興課
【電話】21-1158

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