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掛川歴史探訪36

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静岡県掛川市

徳川家康と掛川三城(5)
家康三大危機の一つ 三方ヶ原の戦い
今回は武田信玄の遠江(とおとうみ)への侵攻と、徳川家康の三大危機の一つである三方ヶ原の戦いについて紹介します。
家康による遠江(県西部)攻略が順調に進む中、甲斐(かい)(山梨県)の信玄は、北条氏との関係が悪化し、攻め進んだ駿府(すんぷ)(静岡市)から退却を余儀なくされていました。その後、信玄は駿河(するが)(県東部)の北条方諸城を攻略し、元亀元年(1570)には駿府を再度占領。その勢いで遠江に侵攻を開始します。
信玄は遠江を東西から挟み撃ちにするため部隊を2つに分けました。元亀3年(1572)に別働隊として重臣山県昌景(まさかげ)が信濃(しなの)(長野県)と遠江の境界を越えて侵攻。信玄率いる本隊も駿河から大井川を越えて遠江に攻め込みます。武田軍の大軍勢に、高天神城主の小笠原氏をはじめとする遠江の有力者は次々と降伏していきました。
信玄は袋井へ進み、太田川手前に着陣します。家康は信玄の侵攻に対して浜松城から出陣しますが、これを食い止めることができず、一度撤退しています。
いよいよ信玄が浜松城に迫るかと思いきや、信玄は途中で方向転換。三河(みかわ)(愛知県東部)を目指す動きを見せます。この動きに対して家康は城から打って出ますが、これは信玄の策略で、結果的に家康は浜松城から三方ヶ原におびき出される形になりました。倍以上の兵力差も相まって、徳川軍は総崩れとなり、家康は命からがら浜松城に退却します。徳川軍は1000余名が討ち取られる一方、武田軍はほとんど損害がないという大敗北でした。
このまま信玄による侵攻が続くかに見えましたが、翌年の元亀4年(1573)に信玄が病によってこの世を去り、家康は九死に一生を得ます。遠江を巡る争いは、信玄の後継者である武田勝頼が引き継ぐこととなります。

問合せ:文化・スポーツ振興課
【電話】21-1158

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