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掛川歴史探訪(38)

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静岡県掛川市

■徳川家康と掛川三城(7) 難攻不落の高天神城 攻め・守りから見る構造
今回は、攻める側、守る側からみた高天神城の構造について紹介します。
高天神城は、中央に位置する曲輪(くるわ)(尾根を削った平坦面)を挟んで東峰(本丸、御前曲輪など)と西峰(西の丸、堂(どう)の尾(お)曲輪など)に分けられ、それぞれ独立した曲輪群で構成されています。この東西の峰は、単独でも城郭として機能する構造となっており、「一城別郭(いちじょうべっかく)」の城とも呼ばれています。
東峰が小笠山丘陵の険しい地形を最大限利用した構造であるのに対し、西峰は堀と土塁を組み合わせた複雑な構造となっています。それぞれの曲輪は堀切(尾根を断ち切る堀)、竪堀(たてぼり)(斜面に沿って作られた堀)により分断され、曲輪の西側は100メートルにも及ぶ横堀(曲輪を囲うように作られた堀)と土塁で守りを固めています。
土塁の頂部から横堀の底までは10数メートルの高低差があるため、侵入した攻め手は曲輪に容易に上がることができません。後ろから続々と自軍の兵士が駆け上がってくる中、攻め手は最終的に横堀の中に入り込むことになります。一方、曲輪の上にいる守り手は、横堀の中の兵を頭上から攻撃することができるため、的を絞って迎え撃つことが可能でした。
天正2年(1574)に高天神城を攻略した武田勝頼(かつより)は、斜面が緩やかになっている西峰の地形を高天神城の弱点と考え、改修することで徳川軍に備えたと考えられています。
遠江の支配を確立するため、高天神城を強化して待ち構える武田軍。一方の徳川軍は高天神城を取り戻す長い戦いが始まります。次号では高天神城奪還に至る過程を紹介します。

高天神城特設サイトはこちら(※本紙二次元コード参照)

問合せ:文化・スポーツ振興課
【電話】21-1158

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