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掛川歴史探訪(40)

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静岡県掛川市

徳川家康と掛川三城(9)

高天神城に迫る家康、横須賀城を築く

今月は横須賀城について、高天神城との戦いを中心に紹介していきます。
天正6年(1578)、徳川家康は武田方の高天神城を攻略する前線基地として、家臣の大須賀康高に命じ横須賀城を築城しました。康高は初代横須賀城主となり、高天神城攻めに参加しています。
国指定史跡横須賀城跡は、東西約600メートル、南北約300メートルの規模ですが、戦国時代の横須賀城は、物資の集積、兵の駐留が主な役割であり、それほど大きな規模ではなかったと思われます。城が現在の規模になったのは、12代城主本多利長が城主だった正保2年(1645)〜天和2年(1682)です。康高の築城から約100年後のことでした。
また、今の横須賀城は遠州灘から約2キロ内陸に位置しますが、1700年代初めまでは、海岸線の位置が現在と異なり、城は海に面していました。戦国時代も同様で、横須賀城は高天神城と浜松城の間の海辺の道筋を抑える城であるとともに、海上から物資を運搬集積する拠点でした。
江戸時代に書かれた『高天神記』には、横須賀城を拠点とした徳川軍と高天神城の武田軍が戦いを繰り広げている様子が記されています。
天正6年8月には、国安村へ康高が軍勢を出し、高天神城から出てきた武田軍と戦いになっています。この戦いには徳川四天王として有名な本多忠勝の名前も登場します。翌7年9月には、高天神の城下まで康高が軍勢を出し、高天神の城兵と戦うとともに、城の近所を焼き討ちしたとの記述があります。長篠の戦い以降、武田方は勢いを失っていき、『高天神記』でも、徐々に徳川が優勢になっていきます。天正8年(1580)になると、家康は高天神城攻略を本格化、城の周囲に多くの砦を築き、城を孤立させていきます。次回は高天神城六砦と呼ばれるこの砦群を紹介していきます。

問合せ:文化・スポーツ振興課
【電話】21-1158

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