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森町の歴史~歴史民俗資料館だより~ 教育委員会社会教育課

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静岡県森町

■第四話 徳川家康ゆかりの鋳物師・山田七郎左衛門(その四)
(広報もりまち令和5年10月号「森町の歴史・第三話」からのつづき)
森の鋳物師・山田七郎左衛門は、家康の戦に従軍し、陣釜や陣鐘、大筒の弾、石火矢(いしびや)等の最新の武器を鋳造する、家康の御用武器職人でした。
山田家の由緒書によれば、天正2年(1574)、家康の一之瀬出陣(犬居城攻め、三方ケ原に続く負け戦)の折、浜松への帰城の道案内を七郎左衛門が務めたことから繋がりができ、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いにおいて軍用を務め、その褒美として、天正15年(1587)、家康から「駿遠両国鋳物師惣大工職(すんえんりょうこくいもじそうだいくしき)」の朱印状を与えられました。その後、天正18年(1590)の小田原攻めにも従軍しました。
天正18年(1590)8月、豊臣秀吉により徳川氏が関東に移封となり、朱印状は効力を失いましたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い以後、駿遠両国は再び徳川氏の勢力下に置かれました。慶長12年(1607)には家康が駿府に入り、七郎左衛門の地位は復活し、駿府横田町に一町の土地を与えられ、そこで駿府御用の鋳物を鋳立てました。しかし、この細工場は出水によって使用できなくなり、代わりに江尻(静岡市清水区)に一町の土地を与えられました。江尻には弟の六郎左衛門が居住し、後に駿府における御用鋳物師を務めるようになりました。駿府横田町と江尻の鋳物師居住地は、鋳物師町と呼ばれました。
慶長19年(1614)、京都方広寺大仏殿の梵鐘を鋳造する際には、病気の七郎左衛門の代わりに六郎左衛門が駿遠両国の鋳物師小工を伴い上京し、七郎左衛門から伝授された方法により梵鐘の鋳造に成功しました。この梵鐘の銘文をめぐる「方広寺鐘銘事件」が、大坂冬の陣へと繋がりました。つづく。

問い合わせ先:教育委員会社会教育課文化振興係
【電話】85-1114

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