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森町の歴史~歴史民俗資料館だより~ 教育委員会社会教育課

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静岡県森町

■第五話 徳川家康ゆかりの鋳物師・山田七郎左衛門(その五)
(広報もりまち令和5年12月号「森町の歴史・第四話」からのつづき)
森の鋳物師(いもじ)・山田七郎左衛門は、戦国時代から家康の御用武器職人として駿遠両国の鋳物師惣大工職(そうだいくしき)(棟梁)を務め、弟の六郎左衛門は、江戸幕府開府後に駿府での御用鋳物を鋳立て、兄弟揃って家康を支えました。
江戸時代初期、家康と豊臣秀吉の子・秀頼によって、秀吉が発願した京都の方広寺大仏(京の大仏)・大仏殿の再建が進められました。奉行は、豊臣家臣の片桐且元(かつもと)が務めました。慶長19年(1614)、大仏殿の梵鐘(ぼんしょう)を鋳造する際、鋳物師の惣元締めであった京都の真継家からの催促で、病気の七郎左衛門の代わりに六郎左衛門が上京し代役を務めました。巨大な梵鐘の鋳造は困難を極めましたが、松で作った樋を用いることによって、溶解した唐金(からかね)が桶の中を燃えながら流れ冷めないようにするという七郎左衛門から伝授された方法によってみごと成功しました。この功績により六郎左衛門は若狭少掾(しょうじょう)(職人などが受ける名誉号)を受領しました。
奉行の片桐且元は、梵鐘の銘文の筆者として南禅寺の僧を選定しました。この銘文中に「国家安康」「君臣豊楽」の二句があり、前者は家康の諱を「家」と「康」に分断して家康を呪詛しているのではないか、後者は豊臣を君主として楽しむという底意が隠されているのではないかとの大論争が巻き起こり、この「方広寺鐘銘事件」が大坂冬の陣へと繋がり、豊臣家は滅亡に至りました。つづく。

問い合わせ先:教育委員会社会教育課文化振興係
【電話】85-1114

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