市は、市民または市にゆかりが深く、公共の福祉を増進したり社会文化の進展に寄与したりして、その功績が卓絶で市民の尊敬の的と仰がれる人に対し、「倉吉市名誉市民」の称号を贈り、その功労に報いるとともに、後世までその功績を顕彰するよう市名誉市民条例で定めています。
市の産業振興をはじめ文化や社会福祉などに多大な貢献をされた廣川仁さんに、名誉市民の称号を贈りました。
◆10人目となる名誉市民に
9月市議会定例会において、令和4年に亡くなった廣川仁さん(元・株式会社エースパック代表取締役会長)を名誉市民とすることが承認されました。そして、10月29日に倉吉未来中心で開催された市制施行70周年記念式典において、広田市長よりご遺族に称号が贈られました。
◆市の産業振興に尽力
米子市に生まれ、幼少期から高校卒業までを倉吉市で過ごし、高校卒業後は大阪の廣川紙業(現・廣川ホールディングス株式会社)に就職しました。
昭和48年、系列会社である株式会社エースパックを39歳で設立し、昭和62年には、ふるさと倉吉への深い思いから、エースパック倉吉本社工場を西倉吉工業団地(秋喜)に竣工しました。
現在までに、同工業団地内に3つの工場と4つの物流センターを建て、多数の雇用を創出し、産業振興に尽くしました。
また、平成8年から6年間、倉吉地域開発推進委員として、産業振興を図るための地域開発のあり方や企業誘致への提言を行いました。
◆ふるさとに貢献したい
企業は地域に貢献すべきという強い気持ちから、第4回倉吉・緑の彫刻賞への寄付(平成9年)を皮切りに、福祉用車両(平成11年)、倉吉パークスクエア遊具(平成12年)、鳥取県中部地震復興支援(平成28年)にとエースパックから寄付が贈られました。市民の憩いの場や福祉現場の充実や、甚大な被害を被った地震からの復興に役立てられ、市民に笑顔をもたらしました。
平成26年には、80歳の節目に、お世話になった倉吉市への感謝の気持ちを表したいと、廣川さん個人として寄付を行いました。寄付金はスイカ農家の若手育成や、鳥取和牛の品質維持向上など、地域産業振興に役立てられました。
常に“ふるさと倉吉”に心を寄せ、多大な功績を残されました。
■廣川仁さんの思い出
秋藤宏之(あきとうひろゆき)さん
同級生/元倉吉市助役
第4回倉吉・緑の彫刻賞(『時空』石井厚生)の折、整備基金をお願いしたのを思い出す。これが倉吉市への寄付の最初とは…。後日、「設置場所が人目の届き易いところが良かった」と言われたのが記憶にある。2回目の寄付は、彼から相談があった。社会福祉はどうかと提案したのを覚えている。具体的には市福祉部と話し合い、形の見えるものとして、福祉用車両整備資金となった。
同級生は、良いものです。終戦の翌年、倉吉中学校に入学、旧制中学校最後の生徒となり、新制倉吉高等学校に進み、6年間共に学んだ。
真木(しんぎ)(旧姓)との再会は、平成8年の倉吉地域開発推進委員会であった。企業誘致のため関西経済同友会の皆さんを紹介してくれ、交流ができ多くの示唆をいただいたのは忘れられない。
株式会社エースパックは、昭和47年に、欧米を視察し、アメリカで見たスーパーの販売方式で、食品容器に個別包装された商品が並び、客がカゴに入れて買っていく光景を見て「日本でもこの販売方式に変わる」と直感し、帰国後、食品容器に関する情報を収集して事業計画を立て、昭和48年に設立したと聞いている。
倉吉工場が設立されてから、廣川は毎年倉吉に帰って来た。会えば、東日本の生産拠点としての福島工場の新設や災害時にも供給責任が全うできる生産拠点の分散化など聞かされた。彼ほど、企業人として倉吉を愛し、会社を愛した人はいない。
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