郷土史研究家森納著「弓浜半島と夜見村」よりご紹介します。
■後鳥羽上皇、後醍醐天皇と大切戸
承久三年(1221年)後鳥羽上皇隠岐配流の折、約百年後の後醍醐天皇配流の折にも、安来から美保関に向う途次に夜見・和田間の大切戸(「切戸」とは「海峡」とほぼ同意)を通ったという事は弓浜一般の古くからの伝承でした。
確かに、富益〜夜見の地層を見ると内・外海に通ずる切戸がかつて存在したことが伺われます。しかし、この切戸は浅瀬に近いもので御座船の大きさでは通過は難しいため、実際には後鳥羽上皇、後醍醐天皇とも中海〜境水道を通ったとの説が妥当と思われます。当時この二人に詠まれた歌もその航路での景色であったようです。
■境水道の狭小化
「伯耆志」に慶長年間(1600年頃)境水道が狭小化し「小刀をも容るべからざる小流となりしより云々」とありました。
■渡〜上道の小切戸の伝承「もと外江、境は出雲島根半島に属していたが、寛永年中の洪水が渡〜上道の水道を閉塞し、今の境水道を作った。外江、境、渡地方の伝承である。」境水道は寛永十六年(1639年)の大洪水で拡大し深くなり、今日の形になったと考えられます。
■村上龍氏の「夜見浜変遷史」及び「境港沿革史」に記してある渡村小切戸の伝承についての再考
「北弓浜は島根半島と接続していたとみられる(八千年以上前)。南の海峡の存在により、現在の境水道が存在する必要性は少なかった。」「弥生期の海進以前は夜見島北端は島根半島に接続していたが、地盤沈下後は島根半島に近い位置に接近しており、この折の人類の生存の跡が北灘、西灘遺跡としてこの時代の砂層から出土したものと思う。」
この大砂州である弓ヶ浜は海面の上昇や下降、斐伊川の洪水と流砂、島根半島付近の隆起陥没により多様に大きく変化してきた歴史がありました。諸説ある中、森納先生はそれらを丁寧に分析、再考、解説され、口伝・伝承も大切にしなくてならないとのお考えのもと「弓浜半島と夜見村」を昭和52年にまとめられました。詳しくは図書館にて是非本著作をご覧ください。
※弓浜半島の成り立ちについては、諸説あります。
参考:「弓浜半島と夜見村」など
編集:市史編さん室
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