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たるみず歴史・文化散歩 第37回

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鹿児島県 垂水市

■柊原小学校周辺の戦争史跡
○戦争の歴史と史跡
垂水は昭和20年8月5日、アメリカ軍による空襲を受け、市内広域が焦土と化しました。柊原においては、現在の錦町に海軍航空隊の軍事基地があり、国道に面して「垂水海軍航空隊之碑」という大きな石碑が目を引きます。
『垂水海軍航空隊見聞録』によると、兵士達は毎日カッターボート(大型の手漕ぎボート)の練習に明け暮れており、オールを漕ぐのに疲れると海に投げ込まれ、陸に上がると上官から暴力を振るわれ、それはひどいものであったといいます。
また、「海軍精神注入棒」と書かれた、長さ1.5m、幅25cmのカッターボートのオールで無抵抗の兵士を殴り、命を落とす者や、毎日の訓練やしごきに耐えかね、自ら命を絶った兵士も多数いたといいます。
このほか、柊原上地区の戦争史跡として、柊原小学校の校庭に長さ約30cmの大砲の弾丸が飾ってあります。
次に、柊原小学校よりやや西にある垂水南漁港の海は「ほうかい」と呼ばれています。なぜこの呼び方なのかはっきり分かっていないのですが、ここには戦時下、魚雷発射場があり、地元民の間でいつの間にか「ほうかい」と呼ぶようになったといいます。漢字を充てるなら「砲海」、或いは海上に築かれた砲台を意味する「海堡(かいほ・かいほう)」の語が転じたのかもしれません。
魚雷発射場は桜島から溶岩を運んで作られたもので、海底から海面まで約3m、全体の高さは大きいもので10mほどありました。演習では何度か魚雷が発射されましたが、実戦では一度も使用されませんでした。
発射場は、浜平の港平沖・俣江沖・葛迫沖・尾迫沖と、柊原の錦町海岸、切目王子神社沖(ほうかい)の6箇所で、尾迫沖のものには幅1.5~2m程の木製の橋が架けられていました。これらは、戦後の昭和25年に鹿児島湾を縦断したルース台風によって大破し、現在では、溶岩石等の基盤部分のみが残されています。
ほうかいの発射場跡は、インターネット上の航空写真からもその影が確認でき、かつては子どもの遊び場であったり、地元の方がイセエビを捕ったりしていたといいます。
このような歴史的背景もあって、小学校のすぐ下の護岸道には、海を臨んで「戦没者慰霊碑」が建立され、そのすぐそばに観音像が祀ってあります。この観音像は、かつてあった江口ガラス店の敷地に平成5年に建立されたものです。現在、近所の方が花を供えたり、落ち葉を掃いたりするなど、お世話をされています。

▽参考
『柊原の歴史誌』中島純昭
地元での聞き取り調査

◆訂正とお詫び
5月号26ページ『第36回たるみず歴史・文化散歩』記事中にある「手貫神社の信仰と現在」の9~10行目で、誤りがありました。訂正してお詫び申し上げます。
誤:新田大明神では、「てりまさる…
正:手貫神社では、「てりまさる…

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