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奄美群島日本復帰70周年記念 ~連載:沖永良部島、日本復帰までの記録~

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鹿児島県知名町

■わたしの戦争体験記 第2回(全5回)
~青年学校時代~

◆星のマークの戦闘機
青年学校時代のことです。ある日、南方から4機編成隊の飛行機が低空飛行でやって来ました。学校の手前で4機がばらばらに分かれ、1機が目の前で旋回しました。勇敢な日本兵だと思い「バンザーイ、バンザーイ!」と皆で喜びました。すると教官が「星のマークがある、敵だ!」と叫んだので、一斉にガジュマルの根元や教室の床下に隠れました。後に分かったのですが、あの編隊は敵の偵察機だったのです。
それから一か月ほどして、今度は南の海上に敵の潜水艦が現れました。すかさず日本の水上機と輸送船がやって来て、海中の敵に向け爆弾を落として去って行きました。直後に40~50mもの水柱が上がりました。教官から「命中したら油が浮くだろうから、海を見ていろ」と言われ、皆で海を見ていましたが、油は浮いてきませんでした。その潜水艦も偵察艦だったようで、敵は攻撃に向けて島の周りをくまなく探っていたのです。

◆焼け野原になった小米
それから数か月後、夕食時に再び潜水艦が現れました。ドロンドロン、ヒューー、ドカーン!と激しい音がしたので、急いでガジュマルの上から様子を窺ったところ、小米の空が真っ赤に染まっていました。「大変だ、小米が火事だ!」と叫びましたが、父は「電業所のドラム缶が破裂したんだろう」とあまり気にしていない様子だったので、そのまま食事を続けました。
しかし翌朝、青年学校へ向かう途中の小米の町は、焼け野原になっていたのです。被害の大きさを、その時感じました。現在の知名小学校の裏門あたりに大きなガジュマルがあり、その枝に人間の内臓がぶら下がっていました。どうやら、昨夜の艦砲射撃で直撃を受けた人が犠牲になったらしく、もう一人大けがをした人がいたそうです。

その日、校長先生が生徒全員を校庭に集めました。「これ以上、学校を続けるわけにはいかない。制空権も制海権も、アメリカに取られてしまった。今日で学校は閉校とする。あとは君たちが、この島を守るんだ」と言われました。

◆激しくなる空襲
それからは、私たちは防空壕掘りに明け暮れました。そして日に日に、空襲が激しさを増してきたのです。大山で防空壕を掘っていたある日、グラマン(※編注1)の襲撃に遭いました。その時海軍の隊長が、真っ先にひとりで防空壕に逃げて行くのを見ました。
「あんな人が隊長だとはなぁ…」と、呆れて笑ったのを覚えています。

◆ウジジに流れ着いた弁当
その頃、ウジジ浜に漂流物を拾いに行くのが日課でした。怖がって誰も浜には近寄らなかったので、いつも私ひとりでした。アメリカ軍の缶詰や弁当(まわりにしっかり蝋が塗られており、中身が濡れていることはなかった)などが浜辺に打ち上げられていました。中身は、長い牛の舌だったり、パンやタバコ、お菓子などでした。兵隊から「毒が入っているだろうから食べるな!」と言われましたが、父が鶏に与えたらどうもなかったので、家族全員で食べました。その味の、最高に美味しかったこと!東からの風の時に流れて来るので、その時を狙って拾いに行くのが私の密かな楽しみとなりました。

※編注1 「グラマン」グラマンF6Fヘルキャット。米軍の艦上戦闘機。

《profile》
児玉 富杢(こだまとみもり)
昭和4年12月生まれ
(屋者字)

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