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【特集】8・1の記録と記憶「あの夏の教訓を忘れないために」(1)

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鹿児島県霧島市

■県内各地に大きな爪痕を残した、平成5年8月豪雨。あの夏から30年が過ぎようとしています。今回は、8・1水害を振り返り、今の私たちに何ができるかを考えます。

(写真)
(1)水位が高まっている若鮎橋(隼人町東郷)
(2)冠水した市街地(隼人町日当山)
(3)川の水が岸を削り、道路まで迫った(妙見大橋近く)
(4)土砂崩れが民家を直撃。5人の尊い命が失われた(隼人町松永)
(5)土砂崩れによって寸断された道路(隼人町松永)
(6)土砂崩れによって宙に浮いた線路(表木山駅近く)
(7)濁流により崩壊した日当山橋(隼人町東郷)
(8)落橋した上小鹿野橋(隼人町松永)
(9)水難ごみ置き場に積まれた大量の畳
※写真は本紙PDF版2~3ページをご覧ください。

後に、姶良伊佐地域を中心とする8・1水害、鹿児島市を中心とする8・6水害として語られる平成5年8月豪雨。30年前の夏、記録的な豪雨によって、県内は相次ぐ災害に見舞われました。前後の長雨や台風などの影響もあり、それらを含めた死者・行方不明者は県内で121人、被害総額は3千億円という、過去に例を見ないほどの被害をもたらしました。

◇8月1日の被害
霧島市内では、7月31日からの2日間で591ミリという驚異的な雨量を記録。各地で土砂崩れが発生し、国分で7人、隼人町で6人、霧島で4人の尊い命が奪われました。建物は54棟が全壊、41棟が半壊の被害を受けました。
豪雨に排水機能が追いつかず、河川や用水路が氾濫。国分・隼人町・横川町は大規模な床上・床下浸水があり、市内全域で3千世帯以上が被害を受けました。道路の寸断や橋の崩壊などの被害も次々起こり、31日から続いた大雨洪水警報が解除されたのは、3日後の8月3日になってからのことでした。道路や電話などの復旧には3日以上を要し、生活機能がまひしたことは容易に想像できるのではないでしょうか。

◇命がけの救助活動
7月から続く長雨の影響で、毎週のように災害対応に追われていた消防団。第一線で活動した団員の1人が、隼人町の荒瀨博文さん(64)です。「7月31日ごろから、活動中に道路が冠水し帰れなくなることが増えました。救助や対応に出動したくても、たどり着けない場所があり、もどかしかった」と表情を曇らせ、「あちこちで道路が浸かり8月1日、天降川の水位が今にもあふれそうなほど高くなった光景は、今でも忘れられない」と続けます。
8月1日、松永地区での土砂崩れ被害の知らせが届き、警戒を強めていた夜、隼人町西光寺でも土砂崩れが発生。一家2人が家屋の下敷きになっているという通報が届きます。荒瀨さんら団員は冠水していない道路を探して現場に急行。現場では胸の高さほどの濁流が押し寄せる中、近隣住民と協力して救助活動に当たりました。「どうにか生きていてほしい、その一心で作業を続けました。1人はなんとか救助できましたが、被災時や救助活動時の状況から、もう1人は諦めざるを得なかった」と悔しさをのぞかせる荒瀨さん。二次災害の危険性が高い中、無事に1人を救助できただけでも奇跡と呼べるような出来事でした。

荒瀨 博文さん(64)
隼人町在住

◇今でも覚えている
「移動手段がないからとお誘いを断っていなかったら、今私はここにいなかった」と振り返るのは、隼人町の川添清子さん(76)です。西光寺の土砂崩れ被害に遭ったのはほかでもない、お茶に誘われた友人宅でした。友人は幸いにもけがで済みましたが「2人で談笑していたら間違いなく生き埋めだった。移動手段がなくて良かったと思ったのは、あれが最初で最後」と少しこわばった表情を浮かべます。
川添さんは当時から、隼人町の日当山地区で夫とともに自転車店を経営。当時、消防団の地区防災部長を務めていた夫の進二さんは、前日から災害対応に従事していました。自宅で店番をしていた清子さんは「道路が浸かっていたのと雨脚が強まったので身構えていました。それでも夜に浸水し始めてからは、初めての事態にどうしたら良いか分からず、半ばパニック状態になってしまいました」と振り返ります。家財や商品を自宅の中でも高い場所に移動させましたが、対応むなしく泥水に浸かってしまいました。
人命だけでなく家財・家屋の被害、地域経済にも大きな影響を与えた8・1水害。当時を知る人は減り続ける一方です。こうした記録や記憶を知り、その教訓を生かせるよう伝え続けることが、今を生きる私たちの務めではないでしょうか。

川添 清子さん(76)
隼人町在住

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