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我がまち朝来 再発見(第186回)

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兵庫県朝来市

■埴輪(はにわ)のはじまり
古墳を飾るものと聞くと思い浮ぶのは埴輪ではないでしょうか。大阪府高槻市(たかつきし)にある前方後円墳・今城塚古墳(いましろづかこふん)の周堤(しゅうてい)に円筒(えんとう)・朝顔形(あさがおがた)埴輪が巡り、他に巫女・武人・力士などの人物や家・甲冑(かっちゅう)・盾(たて)・大刀(たち)などの器財(きざい)、鳥・馬といった動物の埴輪によって彩られています。市内では近畿最大級の円墳である茶すり山古墳に円筒・朝顔形埴輪が古墳を縁取るように並んでいます。
そもそも埴輪はいつから並べられるようになったのでしょうか。『日本書紀』の垂仁(すいにん)天皇のくだりに埴輪の始まりについて書かれており、要約すると次のような話です。
『垂仁天皇のころ、弟を葬(ほうむ)った古墳のまわりに、昔からの風習で家来を生き埋めにした。天皇は家来が泣き呻(うめ)く声を聴いて悲しみ、今後は生きた人間を埋めることを止めることにした。数年後、皇后(こうごう)が亡くなった時、天皇は家臣たちに「葬礼方法はどうすべきか」と尋ねた。すると野見宿禰(のみのすくね)が粘土で人や馬、さまざまな器物を作らせ、天皇に献上した。天皇は以後、生きた人間の代わりに古墳に埴輪を立てるように定めた』
これが日本書紀に書かれた埴輪の起源ですが、考古学調査の成果と一致しない点が出てきています。1つ目は古墳の周りに生きた人間を埋めた痕跡が発見されないこと。2つ目は古墳と埴輪の登場は3世紀後半からですが、人物埴輪が作られるのは5世紀半ばからで、約200年遅れること。埴輪は6世紀を最後に作られなくなるため、日本書紀が編纂された8世紀前半までの約100年の間に埴輪本来の意味が忘れられたのでしょう。
では最初の埴輪はどんなものだったのでしょうか。それは円筒埴輪と呼ばれるものです。弥生時代に壺を乗せていた器台(きだい)と呼ばれる土器から変化したもので、太い筒状の胴体に円形や三角形などの穴が開いています。上に乗せられた壺と一体化し、円筒の上部がラッパ状に開いた朝顔形も存在します。この円筒・朝顔形埴輪は墳頂部を縁取るように立てられることから、葬られた人を悪いものから守る魔よけや境界の意味があったと考えられます。
南但馬で最も古い埴輪が出土しているのは、和田山町東谷にある西山1号墳(4世紀末)です。三面の三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が出土した和田山町平野の城ノ山(じょうのやま)古墳(4世紀後半)と池田古墳(5世紀初め)の間をつなぐ首長墓と考えられる円墳で、令和2・4年度の発掘調査で円筒・朝顔形埴輪が出土しています。南但馬地域で最も早く埴輪を導入した西山1号墳は、埴輪がみられない城ノ山古墳と比べて大和政権との関係がより強まったことを示しています。今後、朝来市教育委員会では、市内に存在する首長墓と考えられる古墳の調査を行い、古墳時代の様相を明らかにしていきたいと考えています。
※画像など詳しくは本紙をご覧ください。

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