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このまち大好き!芽室の歴史探訪

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北海道芽室町

■その99「上渋山小学校」(芽室町渋山九線九十六番地)
芽室歴史探訪会 土岐一雄
渋山川沿いの道路が、中渋山地区を通り上美生に通じたのは大正時代を迎えてからであり、これにより上渋山地区の開拓も進み始めた。
大正三(一九一四)年四月、上美生十一線の愛須農場の土地を借りて渋山教育所付属上渋山特別教授場が開設された。しかし、この校舎は同六(一九一七)年五月の山火事で全焼したため、上美生七線七号に校舎を新築し移転した。そして、翌年には上美生尋常小学校附属上渋山分教場となった。
同十一(一九二二)年十二月三十一日、大暴風雨により校舎が倒壊し、宿直教員が殉職するという惨事が発生した。そこで、直ちに空家を改修して仮校舎とし、授業を再開した。そして、同十四(一九二五)年十一月には、同八線十六番地の愛須農場用地を借りて校舎を新築したが、この用地は昭和五(一九三九)年には寄付された。
同九(一九三四)年七月、同八線八番地の土地を買収して校舎を新築、移転した。その後、同十六(一九四一)年には上美生国民学校上渋山分教場と改称されるも、翌十七年には上渋山国民学校として独立。
更に、同二十二(一九四七)年の学制改革により、上渋山小学校となった。
同二十四(一九四九)年頃には、教職員二名、児童数二十九名の一学級編成であったという。しかし、時代と共に奥地の過疎化が進み、児童数も減少していった。
そこで、迎える新年度には新入生が無くなる同四十七(一九七二)年三月、渋山小学校への統合を決め、五十九年の校史に幕を閉じ閉校した。閉校時、児童数は四名、校長と教諭一名であった。
なお、校舎は平成二十八(二〇一六)年十一月に取り壊された。

▽引用・参考文献
「渋山南開拓百年史」渋山南開拓百年記念実行委員会平成十三年十一月二十五日発行
「芽室町百年史」平成十二年発行

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