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木綿(ゆふ)の山通信

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大分県由布市

今月は由布院キリシタン墓群(県指定文化財:史跡)の紹介です。
由布院盆地内には、キリシタンの墓、もしくは隠れキリシタンの墓と伝えられるものが数多く存在します。その中でも特に多くの墓碑が集積されているのが、「並柳墓地」と呼ばれる墓域です。
自衛隊駐屯地の西側を北に向かった正面にある山裾に所在する並柳墓地は、南に面した斜面に平たん部を何段も築造し、広大な墓域を形成しています。その墓域の中に直方体の平たい石を地面に据えただけの墓碑が点在しています。これがキリシタンの墓とされるものです。
これらの墓碑は十字が墓碑の上面いっぱいに線彫り、もしくは平彫りで表現されています。
また、墓碑に年号や名前が刻まれているものはごく稀で、いつ、だれが葬られているかを知ることはとても困難です。
しかし、名前が刻まれている墓碑の中に「おまさ」「とら」と女性の名前が確認できるものが発見されています。当時は男尊女卑の傾向が強く、また死後には諡(おくりな)や戒名(かいみょう)といった名前が付けられるのが一般的でした。一般女性が生前の俗名で墓碑に名を刻まれることは当時の常識からは考えられず、このことから「人間は神の前においてのみ平等である」とするキリスト教的価値観のあらわれだと考えられ、これらの墓がまさにキリシタンのものであるとの有力な根拠となっています。
由布院におけるキリシタンの歴史は、戦国期に大友宗麟がキリスト教の布教を推し進め、当時この地を治めていた奴留湯主水正(ぬるゆもんどのかみ)とその息子が親族や家臣とともに洗礼を受けたことから始まります。
1580(天正8)年にはイエズス会の宣教師の駐在所が設けられ、1586(天正14)年には教会堂も建てられ、由布院盆地内だけでも1500人もの信徒がいたと言われています。
しかし、九州の制圧を狙う薩摩の島津氏の侵攻により、半年前に完成したばかりの教会が焼き払われてしまいます。
その後、豊臣秀吉による宣教師の追放や、江戸幕府から何度も出された禁教令によりキリシタンの多くは転宗し、歴史の表舞台から姿を消してしまうのです。

問合せ:社会教育課
【電話】097–582–1203

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