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〈多賀城の歴史と文化〉歴史の風

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宮城県多賀城市

■連載144 古代の一等地を掘る(ほ場整備の調査成果(1))
平安時代になると、多賀城の南から南西の位置、現在の城南~南宮地区あたりにかけて、碁盤目状に区画されたまち並みが成立します。このまち並みの中心を東西にまっすぐ走る幹線道路が「東西大路(とうざいおおじ)」です。東西大路は都や他の地域とも繋がる重要な道でした。
東西大路沿いには、都からやって来た上級役人が、住まいである「国司(こくし)の館(たち)」を構えており、まち並みの一等地であったことが分かっています。そのいくつかを、前回の歴史の風(多賀城NOW6月号)で紹介しました。
近年、山王地区で行ったほ場整備事業に伴う発掘調査でも、こうしたまち並みの一等地を調査しています。場所は、前回紹介した国守館(くにのかみのたち)から東に400メートル程の地点です。屋敷の境界にあたる排水用の溝から、西暦800年代頃の人面墨書土器(じんめんぼくしょどき)や暦(こよみ)が発見されています。
人面墨書土器は、土器に人や神の顔を墨で描(えが)き、息を吹き込んで水に流すことで、心身のケガレを払うまじないに使われたものです。同様の土器は平城京(へいじょうきょう)や長岡京(ながおかきょう)などでも発見されています。
暦は、都で作成されたものを、紙に書き写して地方へ持ち込まれました。今回発見したものは木製の板に必要な部分を書き出したものです。左側の行には「天恩(てんおん)」「母倉(ぼそう)」などと書かれています。これらは暦注(れきちゅう)と呼ばれる注釈で、その日の吉凶を示したものです。こうした注釈付きの暦を具注暦(ぐちゅうれき)と呼びます。時代は下りますが、「この世をば…」の和歌で有名な藤原道長(ふじわらのみちなが)も、暦注には大変気を配っており、具注暦を利用して日記を書いていたことが知られています(国宝『御堂関白記(みどうかんぱくき)』)。
このように古代の多賀城、とくにまち並みの一等地には、都と共通するさまざまな信仰や文化が、国司の赴任などを通じてもたらされていました。

問合せ:埋蔵文化財調査センター
【電話】368-0134

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