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新庄開府400年の歴史に学ぶ

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山形県新庄市

~郷土への愛着と誇りを高め新たなまちづくりへ~
第3回 藩財政の確立

大名の取りつぶし政策が強力に進められた江戸時代初期において、家の安泰を図るために、江戸幕府徳川家の忠臣などとの結び付きを強めた羽州新庄藩戸沢氏。11代続いた藩政の礎はその後どのように築かれたのでしょうか。今回は、当時の藩政を支えた財政基盤が、どのように確立されていったかを学びます。

■年貢米・その他物産の上方移出
徳川家康によって江戸幕府が成立し、久方ぶりに平和を取り戻しました。さらに、急速に全国的な流通網が整備され、全国規模の市場が形成され始めました。当時、各地に配置された大名にとっては「いかに早く自国の経済を上方に結び付け、年貢米や他の物産を大阪市場に移出し、有利に換金し得るか」という点が、藩財政の成否に関わる重大事項でした。
初代藩主政盛は、新庄に入部すると同時に廻(かい)船を建造しました。新田・鉱山開発、その他の産業振興を行うことで、領内の生産量を増強させ、最上川と日本海を経由して、京都・大阪の上方市場に移出しようと考えたのです。結果として莫大な利益を得ることができ、藩の財政基盤が確立されました。

■新田・鉱山開発による領内生産力の増強
領内の大規模な新田・鉱山開発は、領内の生産力を増強し、莫大な利益をもたらす、藩財政最大の基礎となるものでした。
新庄藩において、最も大規模な新田開発が、指首野(さすの)・塩野の開発です。指首野・塩野は、新庄の北部から金山町までを流れる泉田川によって形成された、扇状地の扇央部に当たります。そのため、昔から水の便が悪く、ほとんどが原野のまま残されていました。初代藩主政盛は、小国郷(おぐにごう)(最上町)の農民を移し、この地を横断する羽州街道の両側に家屋敷を与えて住まわせ、開拓の拠点としました。後に、これが発展して泉田村となりました。さらに、新田の用水として、上流部の吉沢(よしざわ)村に二つの堤(ため池)を築きました。
鉱山の開発としては、谷口銀山(金山町)と永松銅山(大蔵村)の開発が注目されます。ともに、一帯を最上氏が治めていた時に開発されました。政盛はこれらに大規模な工事を施し、飛躍的に産出量を向上させました。谷口銀山は活気にあふれ、同山の銀で新庄城の隅櫓(やぐら)を築いたとされる史料もあり、新庄藩のドル箱と目されたことは確かです。永松銅山の開発の成果は、二代藩主正誠(まさのぶ)以降に現れました。元禄16(1703)年の幕府への報告書を見ると、粗銅ではありながら、全国第三位の産出量と記載されています。
―次回に続く

出典:シリーズ藩物語「新庄藩」大友義助著

■詳しくは、歴史センターへ。
【電話】22-2188

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