文字サイズ
自治体の皆さまへ

【特集】苦難を超え、世代を超え、歴史を紡ぐ。(1)

2/17

山形県新庄市

新庄まつり、
4年ぶりの通常開催へ、いざ!
苦難を超え、世代を超え、歴史を紡ぐ。

新型コロナウイルス感染症の影響で、やむなく中止となった令和2年。
県外からの来場を制限し、神輿渡御行列と山車の自主運行のみの開催となった令和3年。
規模を一部縮小しながらも「新庄まつりここにあり」という勇姿を見せてくれた令和4年。
そして令和5年。
4年ぶりの通常開催となる今年は、
どんな山車が、囃子が、新庄まつりを彩ってくれるのでしょうか。

■4年ぶりの通常開催 新庄まつり
260余年の時を超えて、新庄まつりの起源と重なる今。
「飢饉(ききん)や戦禍からの復活」と「コロナ禍からの復活」。
ここに、我が新庄藩の誇りと心意気が息づいています。

◆飢饉や戦禍からの復活
▽「領民の活気を取り戻す」ために
さかのぼること268年、江戸中期にあたる1755(宝暦5)年。新庄を含む奥羽地方は「亥年(いどし)の凶作」と名付けられた深刻な冷害などによる凶作で、飢饉に見舞われました。穀物が実らず、大量の餓死者が発生したため、領内の人口は激減。廃村の危機に瀕(ひん)した村も少なくありませんでした。他国から流れてくる乞食(こじき)も後を絶たず、疫病も蔓延(まんえん)。当時の領民が憔悴(しょうすい)しきっていたであろうことは、想像に難くありません。飢饉の翌年、1756(宝暦6)年。「犠牲者を弔い、生きながらえつつも憔悴しきっている領民の活気を、何とか取り戻したい」そう考えたのが、当時の新庄藩を治める戸沢家五代藩主・戸沢正諶(まさのぶ)公でした。正諶公は、五穀豊穣(ごこくほうじょう)と領内安全を願い、戸沢家の氏神である城内天満宮の祭典を、身分や老若男女の区別なく全領民を挙げて行うことで、活気を取り戻そうとしました。これが、新庄まつりの起源だと言われています。祭りのにぎわいは藩周辺の村に留まらず、現在の村山地方からも参詣者が集まるほどだったとの記録があります。正諶公の計らいは実を結び、当時の領民は大いに元気づけられたことでしょう。

▽焼野原からの復活
「亥年の凶作」から100年以上が経過した1868(慶応4)年。京都で始まった「鳥羽・伏見の戦い」を起点とする「戊辰(ぼしん)戦争」の戦禍は、東北地方にまで広がりました。新庄では城と城下町が焼き討ちに遭い、大半が焼失。その翌年の明治2年には版籍奉還(はんせきほうかん)、明治4年には廃藩置県が行われるなど、わずか4年間で目まぐるしく状況が変化しました。このような激動の時代において、祭りは行われたのでしょうか。明治2年に記された資料によると、天満宮の神輿の新調、看板・法被などの物品購入に200両(現在の1500万円相当)を予定するとの記述があります。つまり、戦禍に見舞われた翌年頃には、早くも祭りが再開されていたことが分かります。城下の復興が必要な状況においても、新庄まつりに多くの予算を計上し、早期に祭りを再開させた新庄藩。ここにも、戦禍で打ちひしがれている領民を奮い立たせようとする意図があったのかもしれません。

▽終戦直後の混乱期からの復活
さらに時を進めることおよそ70年。昭和12年に勃発した日中戦争を皮切りに、その4年後には太平洋戦争へと発展し、終戦を迎える昭和20年まで日本は戦争の時代を歩みました。全てが戦争のために動員され、人々の生活は年々苦しさを増していきました。この間、神輿渡御行列と山車行列の両方が行われたのは昭和17年の一度きり。終戦の翌年、まだまだ混乱を極めていた時代。食べ物を満足に入手することも困難だったであろうこのときに、1台の山車が再び姿を現しました。沖の町による「羽衣(はごろも)」です。このたった1台の山車が、当時の新庄の人々をどれほど元気づけたでしょうか。「羽衣」に登場する天女が、これから訪れる平和な時代の象徴として人々の目に映っていたのかもしれません。

◆コロナ禍からの復活
▽戦後初の中止でも絶やさない灯
令和2年4月、全国で新型コロナウイルス感染症拡大による緊急事態宣言が発出されました。その後、本市にも感染症の波が押し寄せ、外出自粛、マスク着用、換気や手指消毒の徹底などが呼び掛けられました。この影響を受けて多くのイベントが中止。また、飲食店を中心に多大な被害を受け、飲食店街からも人が消えてしまいました。
さらには、世界情勢の影響による物価の高騰などにより、営業の再開が遠のいたり、廃業に追い込まれてしまったりした事業者も多くいたことでしょう。それだけでなく、私たちの生活までもが脅かされ、憔悴しきっている人々がいたことも、想像に難くありません。しかし、新型コロナウイルス感染症の影響により戦後初の中止となった新庄まつりでしたが、市民の熱意が途切れることはありませんでした。
令和2年8月、各町内にて有志の方々が集まり、なんと囃子のゲリラライブを実施。コロナ禍の影響や、祭り中止の知らせにより落胆していた市民が、この囃子の音色により、どれだけ元気づけられたことでしょうか。

▽「市民の活気を取り戻す」ために
令和3年には、規模を縮小した形で2年ぶりに新庄まつりを実施。8カ月かけて修理を行った神輿も披露されました。徹底した感染対策の下で、山車の自主運行を行うなど、誰も経験したことが無い形での新庄まつりに悩みながらも、関係団体や市民の皆さんの協力の下、祭りの灯を継ぐことができました。
令和4年には神輿渡御行列・山車行列が復活。幻想的な山車が、活気のある囃子の音色とともに各町内を練り歩きました。
そして、令和5年。コロナ禍を乗り越え、何度も途絶えそうになりながらも受け継がれてきた新庄まつりが、新庄の熱い夏が、間もなくやってきます。

▽受け継がれる、まつりと心意気
新庄まつりでは、老若男女を問わず多くの市民が参加し、祭りを盛り上げています。こうした市民の姿にも、「亥年の凶作」からの復活を願った、正諶公の思いが表れているように感じます。何度も復活を遂げてきた新庄まつりは、脈々と受け継がれてきた祭りにかける熱意とともに、今も確かにこの地に息づいています。
令和7年は、新庄まつりが始まってから270年目を迎えます。そして戸沢氏による新庄開府400年の記念の年でもあります。受け継がれてきた思いを胸に、改めて祭りの起源を振り返り、今年からまた、新たな新庄まつりの歴史を未来へと紡いでいきましょう。

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU