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ふるさと昔 よもやま話(133)

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福井県美浜町

【福井でどうした家康 ~家康の視点から迫る「金ヶ崎の退き口」~】
2月、美浜町が全国から注目される出来事がありました。NHK BSの番組「英雄たちの選択」に国吉城が取り上げられたのです。
この日のテーマは、家康の視点から迫る「金ヶ崎の退(の)き口」でした。この戦いは、織田信長にとって最大の危機といわれ、豊臣秀吉が殿(しんがり)を務め活躍したことはよく知られています。
しかし、この時、同行していた徳川家康も危機に瀕していたのです。ここでは番組の復習を兼ねて、この戦いにおける家康の動向を振り返ります。
永禄13年(1570年)4月20日、織田信長が越前朝倉氏攻めのため木下藤吉郎(豊臣秀吉)や徳川家康らを率いて京都を出陣しました。元号が元亀と改まる23日、信長と藤吉郎が国吉城に入り、家康は別所に陣を構えたといいます。(「国吉籠城記」)25日、軍勢は敦賀へ進攻して天筒山城(てづつやまじょう)を落とし、翌日朝倉勢が降参し金ヶ崎城が明け渡されました。そして木ノ芽峠を越え一乗谷に進攻しようとしたところ、信長の妹婿で北近江の浅井長政の裏切りが知らされ、信長は家臣を残し急いで京都に逃げ帰りました。
この時、家康は先陣として木ノ芽峠にいたといわれ、最後尾で撤退したと推測されます。撤退の際、家康は朝倉勢の追撃を受け壊滅状態の藤吉郎の部隊を黒浜(佐田付近の浜辺)で助けたといいます。(「東遷基業(とうせんきぎょう)」)
その後、家康は国吉城を越え、朝倉勢の追撃から逃げ切ったと考え、松原に陣を構えたといいます。現在は失われていますが、かつて陣跡に碑がありました。また、土井山砦(どいやまとりで)に一時立て籠もったとの伝承もあるようです。
行楽日和の日が増えました。お出かけに町内に残る家康ゆかりの地巡りはいかがでしょうか。(若狭国吉城歴史資料館)

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