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昭和村史料探訪記 vol.45

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福島県昭和村

地域おこし協力隊 松尾 悠亮

◆小中津川名主家文書の紹介(1)古文書から分かる江戸時代の小中津川村
今年6月に南会津町在住(小中津川出身)の栗城義宏様から『公私摘要』(戊辰戦争時の昭和村のことが書かれている記録)他古文書を多数昭和村へ寄贈していただきました。昭和村の医者の紹介は少しお休みして、今回からは栗城様から寄贈していだいた古文書の御紹介をしていきます。

1.『寛永弐拾壱年帳』(寛永21年〔1644〕2月26日、大沼郡内小中津川村名主市左衛門)
寛永17~20年の各年ごとの小中津川村の百姓数(家数)・各家を構成する人(下人も含む)・村高・年貢高が書かれています。
寛永17年(1640)は、19家97名(7人身売・2人死亡)、村高202石8斗(年貢高は120石5升8合(年貢率59%))。寛永18年は、17家87名(5人身売・4人死亡)、年貢高・年貢率は前年に同じ。寛永19年は、16家80人(12人身売・2人死亡)、年貢率は47%余で年貢高は96石8斗2升4合。寛永19年の年貢が前々年・前年から減っているのは、寛永19年に本格化した寛永の飢饉の影響か(横田冬彦『天下泰平』参照)。寛永20年は、11家46人です(当初16家65人だったのが、「拾九人うえ死」と餓死者により減っている)。年貢率は43%、年貢高83石1斗1升9合(村高202石8斗から荒分を引いた193石3斗に年貢率を掛けて算出)となり、年貢高・年貢率双方さらに減っています。
ところで、寛永20年7月、加藤氏に代わり保科氏(松平氏)が会津を治めることになりました(『家世実紀』)。『寛永弐拾壱年帳』は、昭和村の古文書としてかなり古いものであるとともに、領主交代前後の会津領内の村の様子、昭和村における寛永の飢饉の実態が分かるとても貴重な記録です。

2.『陸奥国大沼郡小中津川村宗旨改人別家別帳』(元禄8年〔1695〕3月、名主七郎右衛門)
いわゆる宗門人別帳です。江戸時代に生きた人々は、禁止されていたキリスト教・日蓮宗不受不施派の信者でないことを自分の旦那寺に証明してもらっていました。毎年行われる宗門改を受け、宗門人別帳が作成されました。宗門人別帳には、家ごとに、屋敷の広さ、家を構成する人、それぞれの家で飼っている家畜(駒・雑駄・牛)までが書かれています。そして、帳に書かれた人達が自寺の檀家であることの証言が旦那寺によって帳の末に書かれました。小中津川村の旦那寺は正法寺なので、基本的に正法寺が自寺の檀家であることを証明してくれていました。現代の戸籍のような読み方もできる史料です。
この『宗旨改人別帳』によると、元禄8年当時の小中津川村は、38軒(山伏2軒・社人1軒・名主1軒・百姓31軒・水呑3軒)で、271人(男147人・女124人)、雑駄(荷物を運ぶ馬)21匹・駒(小さい馬)8匹・牛5匹であったことが分かります。

▽小中津川本村百姓数(家数)・人口の変遷

※寛永17~20年の数は本百姓のみの数と思われる。

まとめ
紙幅の都合で今回は省略しましたが、江戸時代の小中津川村の人口・家数が分かる慶安期(1648~1652)の記録(分限帳)も今回寄贈していただいています。
1の文書をみると、寛永17年~20年にかけて小中津川村の家数・人口は減少傾向だっだことが分かります。これは寛永の飢饉の影響ではないかと推定でき(「拾九人うえ死」等から)、飢饉が本格化した寛永19年以降(寛永19・20年)、小中津川村の年貢高・年貢率も寛永17・18年分から減っています。
2の文書をみると、寛永20年~元禄8年の約50年間で、小中津川村の家数は3倍以上、人口は6倍近くに増えたということが分かりました。この50年間に何があったのか、いつか調べてみたいです。
〔続〕

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