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【特集】菊川市内の徳川家康公ゆかりの地(2)

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静岡県菊川市

◆応声教院山門(おうしょうきょういんさんもん)
中内田の古刹「応声教院」の山門は、もともと静岡市の「宝台院」というお寺の山門でした。大正7年にこの地に移築され、昭和29年には、小笠郡下ではじめて国の重要文化財に指定されました。宝台院は、徳川家康の側室で2代将軍徳川秀忠の母「西郷局(お愛の方)」の菩提寺で、広大な敷地に巨大な本堂や山門を有する大寺院です。山門は秀忠によって建立されました。
宝台院は昭和15年の「静岡大火」で本堂が全焼してしまったため、応声教院山門が当時を偲ぶ唯一の遺構です。
所在地:菊川市中内田915

◆善勝寺(ぜんしょうじ)
棚草にある善勝寺は、戦国時代に浜松の戦火から逃れてきた高僧によって建立されたと伝わります。もともと今川氏の陣屋があった場所に建てられたことから、地の利が良く、高天神城の合戦の際には、徳川家康が陣を張り城を攻めたとの言い伝えが残っています。また、その合戦で家康が勝利を収めたことから、もともとの「善昌寺」から「善勝寺」に改称するように命じたと伝えられています。
境内にあるクスノキは、樹齢400年とも言われ、市の天然記念物に指定されています。
所在地:菊川市棚草2630

◆火剣山砦(ひつるぎさんとりで)
武田勝頼が現在の島田市にあった諏訪原城を築城した頃には、徳川方の砦として有ったとの記述が、文献中に見られます。以後、諏訪原城が落城するまでの3年間、砦として利用されたようです。山頂部分に曲輪(くるわ)の遺構が残っています
所在地:菊川市富田

◆井之宮神社(いのみやじんじゃ)
江戸時代の初め、水の乏しい嶺田地区に用水を引こうと、中条右近太夫という村人が徳川家康に直訴した結果、嶺田用水が整備されたとの伝承が語り継がれています。井之宮神社は、右近太夫の功績に感謝した村人たちによって建てられたと伝えられています。
所在地:菊川市嶺田1-1

◆獅子ヶ鼻砦跡(ししがはなとりであと)
○高天神城攻略の要
大石にある獅子ヶ鼻砦跡は、天正8(1580)年、家康が武田方の高天神城を攻める際に、高天神城を包囲するために整備した六砦のうちの1つです。徳川家の家臣大須賀康高が砦の管轄をしました。この六砦には、高天神城を孤立させ、補給を断つことで、兵糧攻めをする役割がありました。
獅子ヶ鼻砦は、六砦のうち、最も東側に築かれた砦です。他の5つの砦はすべて掛川市内にあります。駿河の方から攻めてくる武田方は、戦に必要な兵糧や武器を高天神城へ運び込む必要がありますが、当時は獅子ヶ鼻砦の東南側に沼地が広がっていたため、兵糧などを運び込むには、獅子ヶ鼻砦付近を通らなければいけませんでした。徳川方は、そういったところに目を付け、砦を築き、兵に見張りをさせて兵糧などが運び込めないようにしました。
六砦の効果もあり、物資を運び込めなくなった武田方は、高天神城から出て戦を仕掛け、徳川方に討ち取られてしまいます。こうして高天神城は落城し、高天神城の攻防が終わったことで、獅子ヶ鼻砦も役目を終えることとなり廃城となりました。
現在の獅子ヶ鼻砦跡には、当時の曲輪(くるわ)や堀切(ほりきり)(※)などの遺構が比較的良好に残されています。

曲輪…尾根や斜面を造成して作った平らな場所
堀切…敵の侵入を防ぐために掘られた溝

●今川氏と正林寺
高橋にある正林寺は、家康公ともゆかりの深い今川義元の祖父「今川義忠」を弔うために義元の父「今川氏親」によって建立されたお寺です。
今川義忠は、遠江の平定のため、周辺の有力者と戦をしていました。文明8(1476)年に現在の横地地区を中心に勢力を誇っていた横地氏の居城横地城を攻め、討ち滅ぼします。横地城を後にし、塩買坂に差し掛かった義忠は、横地氏の残党に襲われ負傷します。残党は退けましたが、義忠の傷は深く、命を落としてしまいます。その後、今川家は当主が急死したことで内紛が勃発します。それを収めた義忠の嫡男氏親が、父義忠が果たせなかった遠江平定を成し遂げたのち、この地に正林寺を建立しました。境内には義忠の墓と伝わる石塔が大切に安置されています。

●高天神城の合戦と六砦
高天神城(掛川市)は、獅子ヶ鼻砦から3km西に位置する、標高132mの丘陵に築かれた山城です。山の地形を生かした守り易く攻め難い城で、さらに迎撃性にも優れており、「高天神を制する者は遠江を制す」とまで言われました。武田勝頼は、天正2(1574)年に大軍で高天神城を包囲しました。徳川方は、同盟関係にあった織田信長に援軍を要請しましたが、間に合わず、城兵の助命を引き換えに開城し、高天神城は武田方の城となりました。
家康は、高天神城を奪還するため獅子ヶ鼻砦・中村(山)砦・能ヶ坂砦・小笠山砦・火ヶ峰砦、三井山砦の六砦をはじめとする城砦群(じょうさいぐん)を築きました。これらにより補給路が遮断され、武田方の高天神城は孤立しました。天正9(1581)年、兵糧を断たれ、味方の援軍もない武田軍は降伏開城を申し出ました。しかし、これを徳川軍が拒絶。武田軍は城から出て壮絶な戦いを展開しましたが、ついに敗北しました。

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