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たるみず歴史・文化散歩 第38回

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鹿児島県 垂水市

■牛根の貨客船『今村丸』
本記事は、牛根中浜集落の今村義盛(よしもり)さん(昭和7年生まれ、91歳)のインタビューから、一部抜粋したものです。

○今村丸と当時の記憶
今村丸は兄の勝治(かつじ)が免許を取って、父親の十袈裟(じゅうげさ)(明治30年生まれ)が昭和30年に始めた。前は、牛根境に幸雪丸などがあり、廃業して、今村丸が隔日就航。最初の今村丸は「帆掛け船」。中浜の川のそばで、山下造船が2隻を作った。3隻目(最後)まであった。船長は兄の勝治、私は機関長。
今村丸は貨客船で、牛根境からは積み荷はあまりなく、お客さんがほとんど。牛根境は人口が多く「垂水全体の人口の半分」と言われた。商店の人達が船に買い物を頼み、船では鹿児島から仕入れして帰った。のち、荷物を私が配達して回った。他の港(麓や辺田など)からは荷物だけ、枇杷、山芋、わらび、つわなど。枇杷など積み切らないほど積んでいくものだった。今村丸が鹿児島に行けば市場の人が喜んで、荷物の奪い合いをしていた。鹿児島の港はボサド桟橋で係留場所が決まっていて、垂水のあかね丸のとなり。園田丸、中俣丸、海潟丸もみんな一緒だった。今村丸は帆掛け船のあと、機帆船に切り替えた。エンジンは焼玉エンジン。私は20歳の時に焼玉の免許を取った。発動の前、鉄の玉を30分くらい真っ赤になるまで焼くから、機関士の顔はいつも真っ黒だった。その後、今村丸は錦江湾で初めてディーゼルエンジンに変えたので、エンジンをみんな見に来た。
昔は行楽(おでばい)がよくあって、鹿児島神宮の初午祭にも集落の人を何十人も乗せて行った。
父が生きている頃は、学校の先生たちが天気を聞きに必ず電話が来て「今日は10時ごろ大雨、やめた方がよかど」などと答えていた。一回は忠告を聞かず出かけて大変な目に遭った先生もいた。父は慎重な人だったから船の事故はなかった。仕事で晩の11時ごろになる時もあったが、浜で父が火を焚いて待っていた。
湾内を走らせるのは浅瀬があるから難しい。高免の先には瀬があり、なれた人でないとよその人は通れない。桜島の南側にはそんなに難所はない。
私らが学校に行く頃は、コメの飯と言うのは食べたことがなかったが、船で働く人たちには食わせにゃならんからコメの飯がある。学校から帰るとコメの飯が食べたくて家には帰らず、船に走って行くと、握り飯を作って待っていてくれた。
今村丸の外に貨物船があり、福山からは(炭鉱などの)坑木(松、杉など)を積みだした。佐多には木炭などを積みに行った。その時は山川(知林ヶ島に係留して)に一泊した。
一度は船にコメがなくなって、線路伝いに買いに行ったことがある。乗組員は5、6人。佐多の伊座敷では青年小屋に泊まっている青年たちが積み込んでくれた。大泊や岬を越えて行ったこともあるが内之浦までは行かなかった。
廃業した時の最後の今村丸は昭和46、47年頃、売却して加治木に持って行った。最後なので兄の勝治と私と二人、泣きながら船に乗って行き、港につないで帰ってきた。
(文化財保護審議会委員:瀬角龍平)

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