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第114回 温故知新~うと学だより~

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熊本県宇土市

■熊本城の宇土櫓(後編)

前回に引き続き、熊本城の宇土櫓のお話です。前回の「うと学だより」では、宇土城天守閣は熊本城小天守として移築された説を紹介しました。今回は、「宇土櫓」という名前の由来について考えます。

▼「宇土」の名が付く櫓群
実は、江戸時代の熊本城には宇土櫓以外にも「宇土」の名が付いた櫓がいくつか存在していました。歴代の熊本藩主が藩全体のことを把握するために作成された「肥州録(ひしゅうろく)」という文献があります。この「肥州録」は、藩政に関わる様々な事柄が書き上げられた、まさに熊本藩のことが一目でわかる便覧(びんらん)(ハンドブック)です。この中に「熊本城内櫓数并(ならびに)櫓門・冠木門(かぶきもん)数之事」という項目があり、熊本城内にある全ての建物や門が列記されています。そこには「宇土櫓」「宇土三階櫓」「宇土脇平櫓」「宇土類族方(るいぞくかた)三階脇」「同所(宇土)御預人召置候三階櫓」という「宇土」の名が付く五ヶ所の櫓が記されています(左写真)。これらの櫓は平左衛門丸(へいざえもんまる)(天守閣の西側エリア)と数寄屋丸(すきやまる)(平左衛門丸の南側エリア)にありましたが、残念ながら「宇土櫓」以外の櫓は現存していません。

▼清正、小西遺臣(いしん)を雇用
さて、ここでは五ヶ所の櫓のうち「宇土類族方三階脇」と「同所(宇土)御預人召置候三階櫓」の二つの櫓に注目します。この二つの櫓は、熊本城の頬当門(ほうあてもん)を入って右側の数寄屋丸にあった櫓です。「類族(るいぞく)」とはキリシタンやその一族を指す言葉で、「宇土類族方」とは宇土のキリシタンたち、具体的には小西行長のキリシタン家臣やその家族のことです。また、「同所(宇土)御預人」とは関ヶ原合戦後に加藤清正が家臣にした小西遺臣のことで、「同所(宇土)御預人召置候三階櫓」とは彼らを収容した三階櫓です。

▼小西遺臣たちの仮住まい
関ヶ原合戦後、熊本城下には小西遺臣たちが住む屋敷がなかったので、城下での居住地が決まり、屋敷が完成するまでの間、彼らは熊本城内で生活したものと考えられます。また、小西遺臣にはキリシタンが多かったこともあり、彼らが城下で信教・布教活動をしないよう監視の目が届く城内で隔離(かくり)するという意図もあったのかもしれません。つまり、清正が家臣に迎え入れた小西遺臣が一時的に隔離・収容された施設や、彼らを管理または監視するための役所が熊本城内の平左衛門丸・数寄屋丸一帯に置かれ、こうした櫓に「宇土」の名が付けられたのです。

▼「宇土櫓」の名は残った
その後、小西遺臣たちは熊本城の北側(現在の中央区京町)に住まいが与えられ、そのエリアは「宇土小路(こうじ)」と呼ばれました。小西遺臣たちを隔離・収容する役割を終えた城内の櫓は、次第にその長い櫓名が省略されて呼ばれるようになり、短い櫓名の「宇土櫓」だけが省略されずに、そのまま残されたと考えられます。

参考文献:北野隆「熊本城の宇土櫓について」(『日本建築学会論文報告集』308巻、1981年)

問い合わせ:文化課 文化係
【電話】23-0156

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