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特集 明智光秀~このまちの、はじまりのはなし(2)

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京都府福知山市

【明智光秀が築いた丹波福知山 このまちの、はじまりのはなし】

「福知山城を建てて、御霊神社(ごりょうじんじゃ)に祀られとるけど、福知山にはほとんどおらんかったらしいで〜」なんて聞いたことがある人もいるかもしれません。
そもそも明智光秀は福知山で何をしたのでしょうか。英雄として祀られるようになった背景を探ってみました。

◆戦国時代の丹波
福知山と明智光秀のつながりは、「丹波攻め」から始まります。丹波国とは、今で言う京都市京北町、亀岡市、南丹市、京丹波町、綾部市、福知山市、篠山市、丹波市を含む地域です。都に近いことから、平安時代から寺社などの荘園が数多く作られ、既得権力が弱まっていたとされる戦国時代でも、古い制度が強く残っていた地域でした。
そのため、明智光秀が平定するまで有力な戦国大名が育たず、荘園と地方豪族の武力衝突が相次ぎ、荒廃していたと考えられています。また、そうした歴史からか、都市らしい都市は形成されてこなかったという特徴があります。丹波地域の都市形成は、明智光秀の平定以後。今でこそ丹波地方の主要都市となっている本市や亀岡市は、どちらも明智光秀が創始した城下町でした。私たちが住むこのまちは、まさに明智光秀が築いたまちなのです。

◆光秀の丹波攻め
明智光秀が丹波の攻略に取りかかったのは天正3年(1575)のこと。当初、光秀は目標を氷上郡(現在の丹波市)の荻野直正(おぎのなおまさ)に絞っていました。周辺の豪族を素早く味方につけ、荻野直正が籠城する黒井城を包囲します。しかし、八上(やがみ)城(篠山市)の波多野秀治(はたのひではる)が突如反旗を翻し、直正と連携して光秀を挟撃しました。光秀は命からがら撤退し、立直しを余儀なくされました。

◆困難の末、丹波を平定
その後、丹波攻めを再開した光秀は、波多野秀治をターゲットに慎重に攻略していきます。周辺の城を確実に押さえ、丹波の豪族たちに気を遣い、取り込みながら周到に準備を進めました。
天正5年(1577)には亀山城(亀岡市)を築城し丹波での本拠地に。翌年、荻野直正が病死すると、その翌年には徹底的な包囲戦の果てに八上城を攻略。その後、鬼ヶ城(おにがじょう)(福知山市)、黒井城(丹波市)を制圧し、天正7年(1579)10月、丹波平定を完了しました。
光秀は攻略と同時に、拠点として亀山城や福知山城などの近代的な城郭を建設。また、不要な旧勢力の拠点は次々と棄却し、支配力を強めていきました。

◆福知山の統治
福知山に残る伝承によれば、荻野直正の影響下にあった塩見氏(横山氏)が光秀に滅ぼされ、光秀は、塩見氏の本拠地であった横山城を改修し「福智(知)山城」と、またこの地域を「福智(知)山」と名づけたとされています。 福知山城を築城した光秀は、城と同時に城下町を建設。商業の発展のため、地子銭(屋敷にかかる税)を免除しました。また、城下町建設で発生した土を使い、水害からまちを守るために堤防を築いたとされています。光秀は各地を転戦する立場だったので、福知山城には城代として、娘婿の明智秀満(あけちひでみつ)を置きました。

◆神様になった明智光秀
明智光秀が福知山の領主であったのはわずか3年ほど。しかし、このまちの創始者であり、数々の善政を敷いた恩人として慕われ、江戸時代には数々の伝承が広がっていきました。明智光秀にゆかりのある御霊神社(中ノ)の足立常秋(あだちつねあき)宮司はこう話します。
「御霊神社には産業の神様と明智光秀公がお祀りされています。江戸時代のあるとき、城下町は、全焼してしまうような大きな火事や洪水といった災害が続きました。まちの人々は、災害がなく安心して暮らせるよう、城下町の基礎を築いた光秀公の御霊を慰め、その善政に感謝し、産業の神様を祀っていた祠に合祀しました。
光秀公に対する評価が厳しい時であっても、先人たちはその善政や人物像を語り継ぎ、福知山の発展に力を尽くしてきたんです」
また、鎮魂のために行われていた「御霊会(ごりょうえ)」もかなり盛大なものだったようで、まちの人々が福知山藩主に何度もお願いして開催を認められたものでした。
明治時代には謀反人である光秀を崇めることを禁止され、光秀に関する一切の資料を廃棄するよう通達されています。しかし、人々の心の中で大切に守られ、今日に至っています。
このように、逆臣の将であった光秀を慕うこのまちの独特の空気は、江戸時代、このまちの住民たちが〝語り部〞となって伝え、育んできたものでした。2020年、ついに大河ドラマの主人公として登場する明智光秀。ここから先の光秀像は、この時代、このまちに住む私たちが〝語り部〞となり、広めていくものなのかもしれません。

~明智光秀 丹波をひろめ ひろめ 丹波の福知山~

・市街地からも見える鬼ヶ城(標高540メートル)。山頂付近に主郭があったようです。丹波と丹後の境目にある重要な拠点でした。
・光秀が築いた堤防の名残とも伝わる蛇ヶ端御薮(じゃがはなおんやぶ)。光秀の功績を称え、明智薮と呼ばれ親しまれています。
・天寧寺(大呂)には、光秀が寺での陣取りや竹木の伐採を禁じる書状が残っています。寺を保護する内容のもので、遠隔地にいながらも福知山の統治に当たっていたことを示す貴重な資料です。
・明智光秀ゆかりの御霊神社。宝永2年(1705)に広小路に創建され、大正7年(1918)に現在地に移転しました。光秀ファンの聖地として、全国からファンが参拝しています。
・福知山踊
福知山市の郷土芸能「福知山踊」は、明智光秀が福知山城を築く際、石材を運ぶときの「ドッコイセ」という掛け声にあわせ、おもしろおかしく踊ったのがはじまりと伝わっています。また、踊りとともに歌われる唄の中には、「明智光秀丹波をひろめ ひろめ 丹波の福知山」など明智光秀の功績を称える歌詞が含まれています。

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