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特集ー未来につなぐ新田開発物語(3)

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大阪府大東市

■こんなところにも、あんなところにも新田開発の歴史を物語る遺産があるよ!
会所跡周辺には、新田開発の歴史を物語る貴重な遺産が今も多く残っています。これらの遺産について、地元の皆さんなどのお話と一緒に紹介します。

▽かみなり樋門(ひもん)(深野南町)
水があふれて洪水になるのを防ぐため、大雨になると当番制で樋門を閉じていました。当番の時は、「雷が落ちても絶対に水門を閉じろ」と言われることから、かみなり樋門と呼ばれていると聞いたことがあります。
80代 地元住民

▽農民感謝碑(平野屋1丁目)
会所には避難所の役割もあり、明治時代に会所の災害救助活動に感謝した住民が建てたと言われています。会所跡は泉小学校の東側にあり、記念碑は会所跡の隣の大きなクスノキの下にあります。小学生の頃、放課後にこっそり忍び込んで、大きなクスノキの下でよく遊んでいました。
40代 泉小学校卒業生

▽又の境界石(平野屋1丁目)
よく見ると「又」の文字が刻まれています。これは最初の地主平野屋又右衛門の「又」で、ここから先は新田の土地であるという証しとして建てられたと考えられます。
30代 生涯学習課職員

▽どんばの伏越樋(ふせこしひ)(平野屋1丁目)
鍋田川の水は近隣に昔から住んでいた村の人たちが使用しており、新しくできた深野南新田は鍋田川の水を使わせてもらえなかったそうです。そこで鍋田川の下に、伏越樋というトンネルを作ることで、川の下に水路を通し、別の川からの水を引きました。当時は水の利用を巡る争いが絶えなかったそうです。
70代 市民サポーター

▽残念石(平野屋1丁目)
よく見るとL字と丸の印が刻まれています。そして同じような印が刻まれた石が大阪城に使われています。これは徳川大坂城築城の際に生駒から石の切り出しを命じられた大名の印で、大坂城の石垣になり損なった、「残念石」が、会所の庭石として使用されていたのではないかと考えられています。
70代 市民サポーター

ほかにも水路や石造物などが今も残っています。
巡ってみましょう。

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