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ーわたしと金山ー No3

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山形県金山町

林寛治(かんじ)

■金山国民学校3年で見聞きした終戦前後の情景
今も昔も上台集落は木曽に似た金山の前門で、羽州街道が直線になる山崎は会津の大内宿に似た家並みだった。七日町の柳町と山崎の間は街道を挟んで何百メートルか田畑が続く広がりがあったが、役場専用駐車場の中ほど南側、昔一十(母の生家)の樽蔵があった旧道を挟んだ先からも、この田んぼがずうっと山崎の方まで続いていた。
国民学校3年生の夏休み中、真室川の飛行場が空襲された。このとき樽蔵を背に座って、田んぼの先の柳町と山崎間の森越しに急降下掃射を繰り返す米戦闘機を見ていた記憶がある。この頃の子どもの絵と言えば飛行機か軍艦ばかりであったが、遠く低く点のように見え、間をおいて聞こえてくる機銃掃射の音からは、どうも空襲の実感はわかなかった。先頃羽場・黒沼仁氏の思い出記を拝読して、この空襲が終戦直前、8月10日のことであったのを知った。15日の玉音放送は、一十・入口脇の仏間で大人たちに交じって聞いた。言葉は勿論、何が起きたかさえも全く分からなかった。後日、母たちが「タクべ(繁廼家)で店に出ていた緑さんがこの時の掃射で撃たれて亡くなり本当にムズせえなあ!」と話し合っていたことを覚えている。黒沼記で日中・太平洋戦争の金山からの戦死者が274名とあり愕然とした。今の平和が彼らの犠牲にあることを忘れてはならないことを改めて思う。
冬になると田んぼの広がりは一面真っ白になる。雪解け前の晴れた日、広い雪原での「堅(かた)雪渡り」は、ときにズブリと、もぐるスリルもあって好きだった。このまま山崎までまっすぐ行けば近いと言って、大人たちから一笑にふされたものだ。
新年、この広がりの雪原で「御歳灯(おさいど)」が行われた。長い丸太にくくられて積み重なったわら束が、闇の中で赤々とはじけながら燃え上がるのは荘厳な風景だった。灯火との対比だろうか、なぜかお寺山の黒い背景が迫るようにも感じた。5月には、同じ場所で町内各集落消防団の手押しポンプによる放水競争が行われた。街道に沿って連続した放水が高く弧を描く、やはり見事な思い出だ。
戦後直ぐの、お祭りも花火もなかった時代のこの二大イベントは、すべて人力によるものだった。冬豪雪で南北の峠が閉ざされるという地理的条件が、金山の人心風土の融和協力を豊かにしていたような気がする。

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