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Look Back 50th 広報おおぶで振り返る あの人は今。

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愛知県大府市

■[リモートインタビュー]100年、200年と続く大府であってほしい。
ミスターパーフェクト 槙原寛己

巨人で1990年代、先発投手3本柱の1人として活躍し、平成唯一の完全試合(※)達成者である槙原寛己さん。
槙原さんは大府高校出身で、夏1回、春1回甲子園に出場しています。槙原さんは半田中学校時代に野球を始めます。当時から背が高く、大型投手として県内では有名で、野球強豪校から勧誘を受ける中、大府高校を選んだ理由を「公立高校に行きたかった。兄が通っていたし、公立で甲子園を目指すなら大府かな」と語ります。
甲子園を目指すために大府高校に進学した槙原さんでしたが、「内心甲子園に出ることは難しい」と感じていました。しかし、控え投手としてベンチ入りしていた2年生の夏、チームは甲子園出場を決めました。槙原さんにとって初めての甲子園は、高校時代に最も印象に残っている思い出で「悩んだ末に大府高校への進学を決めた。この選択は間違いではなかったと感じた」と話します。
早くも夢をかなえた槙原さんでしたが、甲子園での登板はありませんでした。それでも甲子園に出場したことで「強豪校にも勝てる自信が付いた。新チームでは自分がしっかりしないといけないと強く思った」と自信と自覚が芽生えます。その言葉通り、新チームではエースとなり、チームを県大会、中部地区大会優勝へと導き、初めてのセンバツ(春の甲子園)出場を決めます。
センバツ初戦、金村義明投手(後に近鉄・中日・西武で活躍)を擁する報徳学園(兵庫)と対戦しました。1回表、初めて甲子園のマウンドに立った槙原さんは「初球を投げると球場全体が湧いた。今でも忘れられない」と振り返ります。この試合、大府高校は5対3で勝利。ストレートは当時の甲子園最速147キロを計測しました。続く2回戦は大雨の中、本来の力を出せず、御坊商工(和歌山)に0対4で敗れますが、剛速球投手として全国にその名をとどろかせます。
夏は県大会で敗退し、甲子園に届かなかった槙原さんですが、その年のプロ野球ドラフト会議で巨人から1位指名を受けます。「3時間目の数学の授業が終わった後に女性の先生から聞きました。うれしくて次の授業の内容は頭に入ってこなかった」と運命の日を振り返ります。
プロ入団後、1年目は2軍でじっくり鍛え、2年目(1983年)の阪神戦で初登板初勝利を完封で飾り、「プロでやれる」と確信した槙原さんは、この年12勝を挙げ新人王に輝きます。その後もチームの主力選手として活躍を続け、2001年の引退後は野球解説者としてお茶の間の人気者となります。
現役の時も引退した後も母校のことを常に気に掛け、槙原さんがセンバツに出場した後、春3回、夏1回の甲子園出場を果たした後輩たちを「公立高校で甲子園出場を果たしたことが素晴らしい。甲子園で『OBU』のユニホームを見ると当時の記憶がよみがえり、誇らしい気持ちになります」とたたえます。そんな野球を愛し、母校を愛する槙原さんは、今年の春夏の甲子園が中止になったことに「本当にかわいそうで、心中お察しする。甲子園に出場することも記憶になるが、ここまでやってきたことも思い出だったりする。残りの高校野球生活を刻み込んでほしい」と高校球児を気遣います。
槙原さんが甲子園に出場してから40年がたとうとしていますが、「大府といえば大府高校の槙原」の印象は野球ファンに限らず、根強く残っています。大府市民にとっても槙原さんは誇りであり、自慢のヒーローでもあります。今でもたまに大府に足を運ぶそうで「私が高校生の時と比べて随分街並みが変わったよね。昔は農地が多かったけど、今は名古屋市のベッドタウン。さらに発展して100年200年と続く大府であってほしいです」と市制50周年に寄せる思いを話します。
40年前、「大府」の名を全国に知らしめた剛腕投手は、今でも「大府」を愛し続けています。

※完全試合…相手チームの打者を安打・四死球・失策で一度も出塁させずに勝利すること。プロ野球の歴史で、15人しか達成していない大記録。

◇Hiromi Makihara
大府高校を卒業し、1981年ドラフト1位で巨人に入団。翌年4月16日阪神戦でプロデビュー。同年12勝を挙げて新人王に輝く。1994年5月18日、広島戦で完全試合を達成。通算468試合登板、159勝128敗56セーブの成績を残し、2001年に引退。現在は野球解説者として活躍。

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