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壷中雑記(11)―歴史文化博物館から―愛荘町ゆかりの洋画家、濱中信久―人と作品―

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滋賀県愛荘町

濱中信久(1942~1980)は、昭和17年、滋賀県愛知郡秦川村(現愛荘町)に生まれ、父が住職を務める金剛輪寺で育ちました。高校時代より独学で油絵を学び、自然の事物を抽象化する独自の作風を築き上げた濱中ですが、その人物像や作品はあまり知られていません。

■大学時代は演劇に夢中
小学校時代の濱中は、成績が良くおとなしい少年でした。秦荘中学校では美術部に所属し、この頃から絵画に興味をもち始めたのではないかと言われています。
彦根東高校卒業後、早稲田大学に進学した濱中は、英語部(ESA)に所属しながら「演劇集団糸」を主宰し、演出を一手に引き受けました。この頃は演劇活動と並行しながら好んで模写(もしゃ)やスケッチをこなし、油絵も多数描いていました。

■二十歳頃のエチュード
濱中の画風は自然の事物を単純化したフォルムで描くのが特徴ですが、二十歳頃の作品にはその片鱗(へんりん)すらも見せません。
1962年に制作された《冬の日》は、病気で亡くなった同級の留学生に対し、鎮魂の意を込めて描かれた作品ですが、陰鬱(いんうつ)で朦朧(もうろう)とした背景に浮かび上がる人物の顔は写実的に描かれています。

■心の師の勧めで画家に
作家生活に迷いを感じ始めた25歳の時、濱中は以前から敬愛していた孤高の画家・熊谷守一(1880~1977)に「世の中に顔出しすると好い」と推され、画家の道を歩みます。
熊谷との交流を通じて制作に打ち込んだ濱中は、東京や京都などで個展活動を続けました。ところが、昭和46年に難病の嚢胞腎(のうほうじん)を発病し、昭和52年には右半身不随のため、約1年を病院で過ごすことになりました。1976年制作の《青空の下で》は利き腕の右手で描いた最後の作品です。

■左手で描き続ける
右半身の自由を失った濱中ですが、退院から3ヵ月後に早くも栃木県黒磯のアトリエに戻り、「右手が使えないからといって絵が描けないのは画家じゃない」と左手で制作を始めました。
1日1時間、体力の許す限り描いた後期の作品は、愛犬ヨギと林を歩き回った頃の記憶を基にしたもので、親しんだ小動物や花、黒磯の風景などを単純な線と色面で描く、柔らかで素朴な作品が多数見られます。

■夭逝の画家―38歳で永眠
昭和55年4月、濱中はアトリエで絵本の挿絵を制作していたところ、腎性高血圧による脳内出血を再び発症し、この世を去りました。濱中はその短い生涯を通じて約400点の作品をこの世に残しました。

歴史文化博物館学芸員 三井義勝

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