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足もとに未来をみつめて 第17回「中世楢葉興亡史ー戦国前夜の楢葉ー」

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福島県楢葉町

古代末から中世の海道地域の支配層が奥州藤原氏から鎌倉幕府へと移る過程で、有力領主としての楢葉氏(ならはうじ)が史料にみえはじめます。今の浜通り地方を、いわき、双葉郡南部・北部、相馬と、おおよその風土、気質などで区分できますが、その原形が生まれたのもこの頃です。中世は、現代にも通じる各地の国人領主が、自分たちのアイデンティティをかけて生きた時代です。今月は、鎌倉から室町時代の楢葉を、ちょっと想像をたくましくして概観します。

■中世武士楢葉氏の苦心
中世の幕開けに、鎌倉幕府の御家人として頭角をあらわした楢葉氏ですが、平泉系を表す五子分封説を持ち出すまでもなく、地元の豪族であったがゆえに、相馬氏とは毛色が異なることは明白でした。楢葉氏や標葉氏(しねはうじ)(現双葉、浪江町)にとって、鎌倉から入部した相馬氏は、強大な侵略者のように映ったかもしれません。ですが、次の南北朝期には、楢葉惣領家の楢葉九郎左衛門入道性円などは相馬氏らと互角に立ち回り、上洛したこともわかっています。こうした楢葉氏の活躍からは、自分たちの土地を守るために、盲目的に強い者に従うばかりが有効ではないことを示しています。もし楢葉氏らがいなかったら、この地域の独自性は早々に失われ、後世の双葉郡はなかったことでしょう。

■海道五郡一揆契状と楢葉氏
室町期に入っても、岩城氏と相馬氏の二大勢力の狭間にあって、したたかに生きた楢葉氏。その”楢葉らしさ“を物語るひとつの根拠が、応永17年(1410)に成立した「海道五郡一揆契状(かいどうごぐんいっきけいじょう)」です。この五郡一揆は、室町幕府がもたらす混沌とした状況にみんなで対応しようと団結した結果であり、そこには岩城氏や相馬氏と同列に楢葉氏がいました。地域の不安定化に対処しようとした、まさにその中心にいたのが楢葉氏であったのは偶然ではなく、武力がないならば知恵を出して難局を乗り切ろうとする、たくましい小領主の姿を読み取ることができます。

■楢葉氏の最期
ところが、幕府の混乱はますます乱世を加速させます。長禄4年(1460)には将軍家から楢葉氏に対して関東への出兵を促す書状も出されるのですが、楢葉氏は、他国のことには関与しないという方針だったようで出陣していません。しかし、滅亡の足音はヒタヒタとすぐそこまで迫っていました。北から相馬氏、南から岩城氏が、同盟諸郡を徐々に掌握し、じわじわと楢葉に押し寄せていたのです。そこへ、猪狩氏が登場します。猪狩氏は、小楢葉(現広野町)に基盤を築き、楢葉本拠地への進出の機会を虎視眈々(こしたんたん)と狙っていました。この動きに岩城氏が呼応し、文明6年(1474)楢葉惣領家は滅ぼされてしまいます。楢葉最後の当主といわれる楢葉左衛門尉の胸の内はわかりませんが、座して死を待つことはせず合戦となって多くの死者が出たと記録にあります。懸命に生きる人々の命や郷土への思いを、根こそぎ奪った時代の大きなうねりに虚しさを感じずにはいられません。ですが、楢葉氏は、時代の行く末に無頓着であったわけではありません。その大きな流れは変えられなくとも生き抜く道を模索し、小勢力を結集し同盟をまとめあげたことは、他の大領主ではできないことでした。今だからこそ、楢葉氏から私たちが学ぶことは多いのです。

楢葉町歴史資料館

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