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常陸大宮市 文書館だより Vol.46

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茨城県常陸大宮市

■三美の廃寺 慈眼寺
常陸大宮市域には、かつて多くの寺院がありました。江戸時代前期の寛文(かんぶん)年間(1661~1673)の時点で、常陸大宮市域には少なくとも200を超える寺院が存在したことがわかっています。しかし、徳川光圀や徳川斉昭が実施した寺社改革や、明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって、寺院の多くがその姿を失いました。現在は、地名やわずかな史料、伝承からその痕跡をうかがうことができますが、その実態については不明なことが多いです。今回は、その中から、三美(みよし)地区にかつて存在した慈眼寺について紹介していきます。

○慈眼寺の創立
圓通山慈眼寺は、三美字根岸にかつて存在した曹洞宗の寺院です。鱗勝院(りんしょういん)(那珂市額田)の僧・顕岩による開山と伝えられており、寛文3年(1663)の時点では鱗勝院の末寺となっていました。しかし、史料によっては開山した僧の名前が久厳(または玖岩)と記されており、正確な実態は不明です。また、創建年代についても諸説あり、「開基帳(かいきちょう)」では弘治(こうじ)元年(1555)、「新編常陸国誌(しんぺんひたちこくし)」では永禄(えいろく)元年(1558)となっています。史料によって多少の差異が見られるものの、およそ1555~60年の間に創建されたと考えられます。慈眼寺の由緒に関しては、福嶋村(現在の三美地区)の庄屋である中㟢長次衛門(なかざきちょうじえもん)が文政(ぶんせい)6年(1823)に水戸彰考館の北条惣五郎(ほうじょうそうごろう)に宛てて作成した記録の写しが残されており、それによると、三美村に屋敷を構える中㟢氏の守護仏である十一面観音像を祀るため、中崎(三美字中崎)の地に観音堂を建立したのがはじまりとされています。この中㟢氏は近江守定宗(おうみのかみさだむね)の代に佐竹氏一族・小場氏へ仕えたという由緒を持っており、元禄(げんろく)13年(1700)に慈眼寺境内に造立された石灯篭(いしどうろう)の銘文には、中㟢近江守定宗の菩提(ぼだい)として造立した旨の記述があることから、慈眼寺は中㟢氏の菩提寺という側面も持っていたと考えられます。その後、江戸時代に入り現在地へ移されました。

○慈眼寺のその後
前述の由緒書を見ると、冒頭に「当村菩提所」という記述があることから、江戸時代の頃には三美に住む人々の菩提寺として信仰を集めていたと考えられます。実際に、慈眼寺跡の墓地には元禄年間(1688~1704)に造立された古い石造物が多数残されており、特に元禄12年(1699)の念仏塔には、念仏行(ねんぶつぎょう)に参加した40人以上の名前を確認することができます。このように、慈眼寺は古くから人々の信仰の場として存在したものと思われますが、天保(てんぽう)15年(1844)に寺社改革の影響を受けて廃寺となりました。現在、本尊の十一面観音像をはじめ、慈眼寺に関する資料や記録はほとんど失われてしまいましたが、「圓通山慈眼寺」と記された扁額(へんがく)が残されており、寺院の存在を今に伝える貴重な資料となっています。
(髙橋拓也)

問い合わせ:文書館
【電話】52-0571

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