■うきは市
うきは市吉井町千年(ちとせ)の小江(おえ)の集落の中、北新川(きたしんかわ)沿いの田畑の中にひっそりとたたずむ石塔があります。市指定史跡の正平塔(しょうへいとう)(本紙またはPDF版掲載の写真)です。この塔が建てられたのは正平18年(1363)。中世の南北朝時代のことです。南北朝時代までさかのぼる石塔は福岡県下をみてもとても古く貴重な物です。
当時、日本各地で南朝方と北朝方それぞれに分かれた地方豪族達の争乱が頻発していましたが、正平14年(1359)、大規模な戦が勃発します。関ヶ原合戦、川中島合戦と並んで日本三大合戦とも呼ばれる大原合戦(筑後川合戦)です。筑後川を挟んで両軍10万ともいわれる大軍が戦いました。この戦いは結果として南朝方の勝利に終わり、以降九州は13年間、南朝勢力の支配下となります。
正平塔には次のような銘文が刻まれています。「願以此功徳(がんにしくどく)、普及於一切(ふぎゅうおいっさい)、我等與衆生(がとうよしゅじょう)、皆共成佛道(かいぐじょうぶつどう)(願わくば此の功徳(くどく)を以て普(あまね)く一切(いっさい)に及ぼし、我等も衆生(しゅじょう)とともに、皆共(みなとも)に沸道(ぶつどう)に成(じょう)ぜん)正平十八年七月十八日調衆(しらべしゅう)各敬白(調衆各々敬って白す)」。銘文の最後に建立者として刻まれている「調衆」とは、星野氏と、同族の黒木氏、川崎氏の3氏を総称するものです。星野氏をはじめ彼らもまた、南北朝の動乱の中で多くの一族郎党が犠牲となりました。この銘文は法華経の一節で、数多の戦の中で散っていった南北両軍の全ての犠牲者の供養を願っていることが読み取れます。正平塔には、長年の戦乱を経験した星野氏ら調衆の、平和への願いが込められていたのかもしれません。石には太古の昔から不思議な力が宿っていると信じられてきました。静かな田畑の中で忘れ去られたようにたたずむ正平塔は、今日も静かに祈りを捧げ続けています。
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問合せ:
うきは市生涯学習課文化財保護係【電話】0943・75・3343)
八女市文化振興課文化振興係【電話】23・1982
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